神奈川と親鸞 第三十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
国府津の真楽寺⑵ 蓮如作の謡曲『国府津』
室町時代の蓮如は、東国巡拝の折に国府津にも立ち寄った。そこで感動した内容を御文(おふみ)にしたという。それを後世に謡曲にしたのが『国府津』であるとされている。
御文は御文章(ごぶんしょう)ともいう。蓮如の手紙形式の教えの文章で、大谷派では「御文」、本願寺派では「御文章」と称している。謡曲とは能楽の台本である。以下に『国府津』を見ていこう。ただし本文は長文なので、部分的に取り上げたい。
話は蓮如が都から国府津を訪ねるということを軸に展開する。文中、「是」とあるのは蓮如自身のこと、「我祖師」「開山上人」はいずれも親鸞のことである。
(前略)
是は都方より出たる、一向専修の念仏者にて候。偖(さて)も我祖師東関のさかひ
に、二十余回の星霜をかさね、辺鄙(へんぴ)の群萌を済度せしむ。中にも相州足下
の郡江津に七年間御座をしめ給う霊場なれども、未だ参詣申さず候程に、此度思ひ立
ち彼の御遺蹟へと趣き候。(中略)あら嬉しやこれは早や相模国江津にてありげに候。
所の人を相待、御旧蹟を尋ふずるにて候。(中略)扨(さ)ても古(いにし)へ開山上
人、此所に御逗留の折節(おりふし)、来朝せる唐船の中に、高さ七尺横三尺余の霊石
あり。則ち天竺(てんじく)仏生国(ぶっしょうこく)の石なればとて、親鸞自ら御
指を以て、二つの尊号を十字八字にあそばされしを、石の名号と申し奉り、安置せる
所を則ち真楽寺とは申し候。
(後略)
文中に、「来朝せる唐船」とあることも興味深い。国府津には近年まで漁港があったというが、現在では目立った港は見られない。しかし中世には中国からの貿易船が立ち寄る大きな港があったことが『国府津』から推測されるのである。
真楽寺には謡曲『国府津』印刷のための版木が保存されている。