神奈川と親鸞 第三十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
国府津の真楽寺⑴ 親鸞布教の旧跡
親鸞が一切経校合のために鎌倉に姿を現わしたのは、嘉禄3年(安貞元、1227)か翌年の安貞2年、55,6歳のころと考えられる。なぜなら、一切経書写の企画者である北条泰時は、このころからこの企画を実行に移した気配があるからである。
親鸞は60歳のころに帰京したと考えられる。そこで親鸞は関東時代の後半生、正確には関東時代の三分の一の年月に、相模国で布教活動を行なったことになる。ただし、全期間を相模国で過ごしたということではない。
親鸞は校合の合間に付近での布教も行なったようである。その足跡は後で述べるとして、興味深いのは同時期に小田原市国府津でも布教した気配があることである。国府津は鎌倉の西方約20キロにある。その布教の跡とするのが同所の真楽寺(眞樂寺)である。
真楽寺は、寺伝では聖徳太子の開創と伝えられている。平安時代以降は天台宗となったが、安貞2年、その時の住職である性順が相模国を布教して回っていた親鸞の門に入って浄土真宗に改めたとされている。まさに親鸞56歳である。
顕誓(けんせい)という戦国時代の僧が永禄11年(1568)に著わした『反故裏書』にも次のようにある。顕誓は蓮如の孫である。
(親鸞は)相模国あしさげの郡高津の真楽寺、又鎌倉にも居し給と也。
「あしさげの郡」とは「足下郡」すなわち「足柄下郡」のことである。「高津(こうづ)」は「国府津」のことで、「江津」とも表記した。
江戸時代の『大谷遺跡録』「勧山信(真)楽寺記」の項には、
相州足柄下郡国府津信楽院信楽寺は、高祖聖人御化導の旧跡也。高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ。
とある。親鸞の本拠は稲田であって、折に触れて国府津の地にやってきたとある。これが実情を物語っていよう。