神奈川と親鸞 第三十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑹ 一切経を園城寺に納める
北条泰時が企画した一切経書写は長い時間をかけつつ、順調に進んだ。これは政子の菩提を弔うのが目的であるが、以前に述べたように、政治的意味合いが濃かった。政子が御家人たちに与えた大恩を、何年もかけて彼らに意識させ続けること。それが泰時の政権の安定につながるからである。この企画は嘉禄元年(1225)に亡くなった政子の3回忌のころから実行に移されたであろうことも前述した。
嘉禎3年(1237)7月11日、政子の十三回忌法要が盛大に行なわれた。鎌倉の大慈寺では、完成した一切経の供養が行われ、第4代将軍藤原頼経および多数の御家人が出席した。
大慈寺は三代将軍源実朝が父頼朝の菩提を弔うため、建保2年(1214)に建立した寺である。ちょうど親鸞が越後から関東に移住してきた年である。
翌年の暦仁元年(1238)、泰時は将軍頼経のお供で上洛した。そのおりの7月11日、泰時はひそかに近江国(滋賀県)の園城寺(三井寺)の唐院(とういん)に、一切経を持参して参詣した。そのことを記した『吾妻鏡』同時条に、次のようにある。文中、「左京兆(さきょうのすけ)」とあるのが泰時のことである。
左京兆、密々園城寺に参り給ふ。是は去(い)ぬる年、禅定二位家(ぜんじょう・に
いけ。政子のこと)一十三年御忌景(遠忌のこと)に当たり、彼の恩徳に報い奉らん
が為、鎌倉に於いて書功(しょのく)を終る所の一切経五千余巻、今日また件(くだん)
の御月忌(命日)を迎へ唐院霊場に納め奉らるに依るなり。
園城寺は政子や義時と親しかった寺院である。唐院とは平安時代以来、主に中国から渡来した宝物を納めておく所であった。現在でも園城寺でもっとも重要な位置にある。泰時は一切経の全巻それぞれの奥に自分の花押を書き、伯母政子の菩提とともに幕府の安定を願って納めたのである。