神奈川と親鸞 第二十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切教校合⑹ 正安寺➀親鸞鎌倉入り草履脱ぎの寺
横浜市栄区長沼町・正安寺は、「親鸞鎌倉入り草履脱ぎの寺」と言われている。本連載の前回まで、三回にわたって紹介した戸塚区下倉田町・永勝寺のすぐ近くである。長沼町の地域も下倉田町の地域も、もとは相模国鎌倉郡の内であった。鎌倉時代には、北条氏本家の強力な拠点であった山ノ内荘の中にあった。
昭和十四年、両地域を含む鎌倉郡内の一町七箇村が横浜市に入り戸塚区となった。昭和四十四年、こんどは戸塚区から瀬谷区が分区、昭和六十一年には栄区と泉区が分区した。
正安寺は臨済宗円覚寺派の寺である。意外に思われる方もおられるであろうが、日本で各寺院の宗派が固定されたのは江戸時代初期である。これは幕府が本山末寺の制度を定めたことによる。江戸幕府は、戦国時代に一向一揆や法華一揆など仏教勢力が大軍事力を持っていたことを危険視した。そこで各宗派に本山と末寺定めさせ、幕府が本山を把握し、本山に末寺を監視させる体制を作った。以後、末寺が宗派を変更したり、独立したりするのは困難になった。それ以前はどのように宗派が変わろうと問題ではなかったのである。
『長沼山正安寺縁起』によると、正安寺はもと天台宗の寺で能満寺と称していた。親鸞が一切経校合をした時、貞永元年(一二三二)八月、この寺に七日間逗留した。その折り、住職だった浄蓮という僧が親鸞の学識に傾倒し、その門弟となった。以来、天台宗を改めて浄土真宗となったという。村人も親鸞の教えを受けて同行(信徒)になったとされており、能満寺は「親鸞鎌倉入り草鞋ぬぎの寺」と呼ばれるようになったという。
その後、十六世紀の戦国時代、小田原北条氏の弾圧の難を逃れるため、時の住僧海弁は鎌倉の円覚寺に救いを求めた。その後、円覚寺の許可を得て浄土真宗の能満寺から臨済宗の正安寺となって弾圧の憂いを逃れることができたという。
正安寺は臨済宗でありながら、浄土真宗の最重要法要である報恩講が行なわれてきた、珍しい寺である。