神奈川と親鸞 第二十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑸ 永勝寺➂聖徳太子立像
横浜市戸塚区の永勝寺は、親鸞が北条泰時からの依頼で一切経を校合した時、この寺に滞在したとの伝えを持つ。この寺には、泰時から送られて親鸞の愛用であったという枕がある。各地に親鸞が自分で彫ったという阿弥陀仏像や、親鸞像、あるいは使用していた遺品と伝えられる品々があるが、枕というのは珍しい。
また境内には保命水と呼ばれる井戸がある。これは親鸞が自ら掘った井戸で、仏前に供える水を準備するためのものであったとされている。永勝寺の境内は南側から西側に展開する丘の麓に位置している。そのためであろう、湧き水は豊富で、周囲の民家の井戸が枯れることがあっても、保命水は枯れることがなかったという。
さらに、永勝寺の大門の脇にあった松の大木は、親鸞袈裟がけの松と称されていたという。暑い夏に掛けたということであろう。ただし、その大門は現在の境内からは離れた場所にあったようで、大門も松の大木もいまはない。
そして永勝寺の阿弥陀堂には木像の聖徳太子立像が安置されている。この立像は像高一二六、七センチ、寄木造である。親鸞が自ら彫ったとの伝えがある。実際のところは南部屋朝時代の制作と推定される。右手に笏、左手に香炉を持った、聖徳太子十六歳の孝養太子像である。この年、聖徳太子は父用明天皇の病気治癒を祈願した。父の気分をよくしてもらうため、香炉の中に香水を入れて父に捧げるという孝行息子の姿を表わしたのが本像である。教養太子像には、笏を持たず、両手で香炉を捧げている像も多い。
本像は少年らしいさわやかな顔つきを、神経を行き届かせて彫ってある。衣文も巧みに彫り込んである。昭和四十一年(一九六六)七月、神奈川県文化財に指定されている。
親鸞には強い聖徳太子崇敬の念があったという、浄土真宗寺院には聖徳太子画像が掛けられ、また時に聖徳太子立像が安置されている。ただし、聖徳太子に対する宗教的な崇敬の念は、平安時代中期の天台宗から始まったもので、親鸞のころには天台宗あるいは天台宗出身の僧侶であれば必ず崇敬心を抱いていた。その理由、それから親鸞の太子への崇敬心についてはいずれ述べる予定である。