神奈川と親鸞 前編27回

このエントリーをはてなブックマークに追加

神奈川と親鸞 第二十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

 鎌倉での一切経校合⑺ 永勝寺➁山内ノ荘と鎌倉街道

和田義盛坐像。南下浦町・来福寺蔵(非公開)

和田義盛坐像。南下浦町・来福寺蔵(非公開)

 親鸞の一切経校合はこの寺でなされたと伝のある永勝寺の所在地は、現在の行政区でいえば横浜市戸塚区の内である。しかしかつては鎌倉郡山ノ内荘という行政区の中にあった。
 山ノ内荘(山内荘)とは、鶴岡八幡宮の西にある巨福呂坂(小袋坂)の切通しを北に越えた地域の大荘園で、執権である北条氏の本家(得宗家という)が強く頼りにした軍事拠点であった(現在では巨福呂坂の切通しはなく、聖天坂と呼ぶ坂だけが八幡宮側にある)。
 山ノ内荘は、建保元年(一二一三)、北条義時が和田義盛一族を滅ぼした時に手に入れた。鎌倉で事件が起これば、巨福呂坂を経由してすぐ大兵力を投入できるし、危急の場合にはこれまたすぐ逃げ込める。そして山ノ内荘には、北条泰時の常楽寺・時頼の建長寺・時宗の円覚寺・貞時の東慶寺などが次々に建立されていく。永勝寺はこの山ノ内荘にあった。当然、泰時の信頼を得ていたであろう。八幡宮のほぼ真北の方向、約六キロの地点である。
 永勝寺の前の道は、かつて鎌倉街道の「中路(中道)」であった。各地から鎌倉へ向かう道はそれぞれが鎌倉街道と呼ばれたと言われているが、それは実際は江戸時代末期以降のことであった。ただ鎌倉時代、御家人たちが鎌倉へ馳せ参ずるための道路は三本にわたって整備された。それは上道(鎌倉から武蔵西部を経て高崎に至り、信濃・越後へ抜ける)、中道(鎌倉から巨福呂坂を越え、武蔵東部を経て下野・奥州へ抜ける)、下道(鎌倉から朝夷奈の切通しを越え、武蔵の東京湾沿いを北上して常陸へ抜ける)と呼ばれていた。
 親鸞が常陸稲田から鎌倉へ向かう時、中道と下道のどちらかを使ったであろう。ただ中道の方が少し距離が短かい。また下道は東京湾へ注ぐいくつもの大河川の河口付近を横切っている。洪水等で不通になる危険性も大きい。そこで中道を使ったのではなかろうか。
 なお、昭和十四年(一九三九)年四月、旧鎌倉郡内の一町七ヶ村は横浜市と合併して戸塚区となった。現在の横浜市瀬谷区・栄区・泉区は後に戸塚区から分離したものである。横浜市の市域はもと武蔵国に属していたが、戸塚区以下の四区は相模国に属していた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です