神奈川と親鸞 第二十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑹ 永勝寺と親鸞
横浜市戸塚区下倉田町の永勝寺(真宗大谷派)は、もとは鎌倉の甘縄(鎌倉市長谷あたり)にあって天台宗の長延寺と称したという。やがて現在地に移り、親鸞が当地に布教に来た時にそのころの住職が親鸞の教えに帰した。親鸞の一切経校合はこの寺においてなされたとの伝えを持っている寺である(『御相伝略縁起(永勝寺略縁起)』永勝寺蔵)。寺名は戦国時代末期に永勝寺と改めた。
江戸時代の明和八年(一七七一)刊行になる『大谷遺跡録』「臥竜山永勝寺記」の項にも、次のようにある。
当寺は往昔、天台宗の精舎なりき。然るに嘉禄二年の比、高祖聖人当国に遍歴し、
鎌倉に往返して普く群生を化す。 爰に於て寺務これに謁して、専修念仏の法を伝燈す。
聖人御帰洛の砌まで七入箇年【安貞二より文暦元に至る】 当国国府津に通ひ給ふ内、
多くは此にあり。武蔵守泰時蔵経書写の時選挙せられしも、爰にありてなり。
「永勝寺はその昔、天台宗の寺院でした。ところが嘉禄二年(一二二六)のころ、親鸞聖人が相模国をめぐられた時、鎌倉にも何度か行って広く人々に念仏を伝えました。そこで当時の永勝寺の住職も聖人にお目にかかり、専修念仏の教えを受けました。聖人は帰京されるまでの七か年【安貞二年(一二二八)から文暦元年(一二三四)】、相模国国府津に通われたうち、多くの年月はこの永勝寺にいました。武蔵守北条泰時が一切経を書写したときに、聖人が校合の役に選ばれたのも、この永勝寺においてでした」。
安貞二年という年紀と、国府津という地名に注目しておきたい。安貞二年は親鸞五十六歳、幕府では北条政子三回忌法要が終わった翌年である。その意味するところについては本連載第二十二回で述べた。
同じく江戸時代の宝永七年刊行の『遺徳法輪集』、享和三年(一八〇三)刊行の『二十四輩順拝図会』にもほぼ同じ内容の記事が載せてある。