神奈川と親鸞 前編22回

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神奈川と親鸞 第二十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴  鎌倉での一切経校合⑵ 北条泰時の一切経校合・書写事業
鶴岡八幡宮の舞殿。鶴岡八幡宮は、かつて鶴岡八幡宮寺と呼ばれた

鶴岡八幡宮の舞殿。鶴岡八幡宮は、かつて鶴岡八幡宮寺と呼ばれた

 元仁元年(一二二四)、執権に就任した北条泰時の政治的立場は弱かった。翌年に泰時を強力に推していた叔母の政子が亡くなると、状況はさらに悪化した。泰時は、この危機を叔父時房を連署に据え、評定衆を設置して有力御家人を幕政に結集させ、幕府を宇都宮辻子に移すなどして乗り切る態勢を作った(本連載第十三回)。  また泰時は政子の法要を盛大に催し続けた。政子は幕府を創設した源頼朝の妻であって、「頼朝後家」の権威は大きかった。加えて、承久三年(一二二一)の承久の乱では卓越した指導力で幕府軍を勝利に導いた。御家人にとっては無条件に崇敬の対象であった。その政子の法要であってみれば、反泰時の北条氏でも御家人でも、参加せざるを得ない。そしてその主催者は泰時である。法要ごとに泰時の指導力は増そうというものである。  政子の法要は嘉禄元年(一二二五)政子没直後の大法要、翌年の一周忌法要、翌々年の三回忌法要と連年続いた。その後毎年の年忌法要は行なうにしても、次の大きな法要は、寛喜三年(一二三一)を待たねばならない。そこで泰時が注目したのが一切経の奉納であったと推定する。一切経の法要は、前回に述べたように、故人の追善供養であり、また国家の安泰を願うものであった。まさに政子追慕にはぴったりの事業である。  一切経は宋からの輸入が不可能ではない(宋版一切経)。しかし泰時は校合・書写・奉納という道を選んだ。その方が世の中に政子の恩徳を思い出させ続けられるからである。  すでに奈良時代から一切経供会という法要があった。すべての経典を前面に出しての法要である。鎌倉においても、『吾妻鏡』によれば建久五年(一一九二)、元久三年(一二〇六)、承元二年(一二〇八)、承元五年(一二一一)、建暦二年(一二一二)、建保四年(一二一六)、建保五年(一二一七)と鶴岡八幡宮寺で行なわれたが、以後途絶えた。それが寛喜元年(一二二九)七月十一日、突然のように鎌倉・勝長寿院で政子のための一切経会が行なわれている。以後のことについてはいずれ述べる(予定では本連載の第三十回にて)。

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