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神奈川と親鸞 前編35回

神奈川と親鸞 第三十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

国府津の真楽寺⑷ 御勧堂

御勧堂の石碑。小田原市国府津

御勧堂の石碑。小田原市国府津

 親鸞が国府津で教えを説いたのは、勧堂という小堂であったともいわれている。蓮如の『国府津(江津)』に真楽寺との絡みで次のように記されている。
  御在世の昔、往生の一途を教化したまふ。其堂場の御跡なりとて、
  あれなる松の木の間に草むらの御座候を、今に勧堂とは申習はしてこそ候へ。
  『大谷遺跡録』にも、次のように記されている。
  相州国府津の勧堂は、高祖聖人在住の時、説法利生の芳趾なり。
 現在、真楽寺から東海道を信号で渡って歩道を左に進むと、やがて右側に「御勧堂」の石碑がある。
 その背後に、コンクリート造りの勧堂が建っている。何十年か前に建てられたことを思わせる。ただ海岸に近く塩害が大きいので、堂内の宝物はすべて真楽寺に引き揚げてあるそうである。御勧堂の石碑は、まさに親鸞の国府津とその近辺の布教を象徴する記念碑といえるだろう。
 親鸞が六十歳のころに帰京する時、この勧堂にしばらく滞在して念仏布教に当たったという伝えもある。当時、東海道で箱根を越えるには二つの道があった。一つは、現在のJR御殿場線に沿って箱根連山を右から大回りして足柄峠を越えて駿河国(静岡県)へ入る道である。これを足柄道といった。もう一つは、正面から険しい箱根山を登り、芦ノ湖を右に見て箱根峠を越えて相模国に入る道である。親鸞のころは足柄道が箱根を越えるにあたっての本道であった。
 のみならず、現代のJR東海道線も百年近く前までは御殿場線が本線であった。昭和9年(1934)に丹那トンネルが開通してから、東海道線は現在のようになったのである。御殿場線はJR国府津駅から始まって静岡県の沼津駅に至っている。国府津は現代に至るまで交通の要地なのである。
 『二十四輩順拝図会』の「勧堂」の項に、
  高祖聖人当国倉田永勝寺におひて化益あらせ給ひし砌、此所に草庵をむすび、
  しばしば往返し群民を御利益なし給ひたる芳趾なり。これによって世俗称して御すすめ堂といふ。
 と永勝寺と勧堂を並べ記してあるのは、親鸞の相模国布教を象徴的に示している。

神奈川と親鸞 前編34回

神奈川と親鸞 第三十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

国府津の真楽寺⑶ 帰命石

帰命石の複製。真楽寺蔵 

帰命石の複製。真楽寺蔵

 真楽寺はJR国府津駅近く、東海道(国道一号線)に面した所にある。もとは裏手の丘陵の上にあった。このあたりは鎌倉時代から宿場として、また市が開かれる所として栄えていた。丘陵がかなり海に迫っているので、農地を開く余地はほとんどない。東西に延びる東海道を越え、その先の西湘バイパスと呼ぶ道路を越えれば広い太平洋である。
 真楽寺の近くには北から曽我道(国府津道)が南下していて、東海道と直角に交わっていた。この道は相模国西部の山間部と海とを結ぶ重要な街道だった。加えて、府中道や巡礼街道などの街道も国府津で東海道に合流していた。それに、「国府津」というのは、国府に直結する重要な港という意味で、諸国に存在した地名である。相模国の国府がどこにあったのか。候補は複数あるが、いまだ一ヵ所に確定してはいない。しかし現在の小田原市国府津が国府の近くにあり、特に重要な役割を担っていた時代は確実にあったであろう。さらに国府津の港には中国からの貿易船も入港して賑わっていた。
 前回に紹介した蓮如の謡曲『国府津』に、貿易船が積んでいた「高さ七尺・横三尺余の霊石」に親鸞が阿弥陀仏の「十字八字」の名号を指で掘り込んだ、それを「石の名号」という、それは真楽寺に安置してある、と書かれている。
 「石の名号」はその後「帰命石」と呼ばれるようになり、真楽寺に伝来されてきた。ただし現在、この石は埋められ、その上に帰命堂が建てられたので見ることはできない。『新編相模国風土記稿』にその模写が記載されており、また真楽寺の帰命堂には帰命石の複製と拓本が安置されている。その銘文は、

右志者為鏡空行光門弟一向専修念仏者等
帰命尽十方无㝵光如来
南无不可思議光仏
建武元戌十一月十二日同心敬白

という文章である。真楽寺の伝えでは、中央の二つの名号は親鸞が指で書いたもので、左右の銘文は後に覚如が国府津に立ち寄った際に書き込んだものとしている。

神奈川と親鸞 前編33回

神奈川と親鸞 第三十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

国府津の真楽寺⑵ 蓮如作の謡曲『国府津』

蓮如作謡曲『国府津』

蓮如作謡曲『国府津』

 室町時代の蓮如は、東国巡拝の折に国府津にも立ち寄った。そこで感動した内容を御文(おふみ)にしたという。それを後世に謡曲にしたのが『国府津』であるとされている。
 御文は御文章(ごぶんしょう)ともいう。蓮如の手紙形式の教えの文章で、大谷派では「御文」、本願寺派では「御文章」と称している。謡曲とは能楽の台本である。以下に『国府津』を見ていこう。ただし本文は長文なので、部分的に取り上げたい。
 話は蓮如が都から国府津を訪ねるということを軸に展開する。文中、「是」とあるのは蓮如自身のこと、「我祖師」「開山上人」はいずれも親鸞のことである。

(前略)
是は都方より出たる、一向専修の念仏者にて候。偖(さて)も我祖師東関のさかひ
に、二十余回の星霜をかさね、辺鄙(へんぴ)の群萌を済度せしむ。中にも相州足下
の郡江津に七年間御座をしめ給う霊場なれども、未だ参詣申さず候程に、此度思ひ立
ち彼の御遺蹟へと趣き候。(中略)あら嬉しやこれは早や相模国江津にてありげに候。
所の人を相待、御旧蹟を尋ふずるにて候。(中略)扨(さ)ても古(いにし)へ開山上
人、此所に御逗留の折節(おりふし)、来朝せる唐船の中に、高さ七尺横三尺余の霊石
あり。則ち天竺(てんじく)仏生国(ぶっしょうこく)の石なればとて、親鸞自ら御
指を以て、二つの尊号を十字八字にあそばされしを、石の名号と申し奉り、安置せる
所を則ち真楽寺とは申し候。
(後略)

 文中に、「来朝せる唐船」とあることも興味深い。国府津には近年まで漁港があったというが、現在では目立った港は見られない。しかし中世には中国からの貿易船が立ち寄る大きな港があったことが『国府津』から推測されるのである。
 真楽寺には謡曲『国府津』印刷のための版木が保存されている。

神奈川と親鸞 前編32回

神奈川と親鸞 第三十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

国府津の真楽寺⑴ 親鸞布教の旧跡

真楽寺。小田原市国府津 

真楽寺。小田原市国府津

 親鸞が一切経校合のために鎌倉に姿を現わしたのは、嘉禄3年(安貞元、1227)か翌年の安貞2年、55,6歳のころと考えられる。なぜなら、一切経書写の企画者である北条泰時は、このころからこの企画を実行に移した気配があるからである。
 親鸞は60歳のころに帰京したと考えられる。そこで親鸞は関東時代の後半生、正確には関東時代の三分の一の年月に、相模国で布教活動を行なったことになる。ただし、全期間を相模国で過ごしたということではない。
 親鸞は校合の合間に付近での布教も行なったようである。その足跡は後で述べるとして、興味深いのは同時期に小田原市国府津でも布教した気配があることである。国府津は鎌倉の西方約20キロにある。その布教の跡とするのが同所の真楽寺(眞樂寺)である。
 真楽寺は、寺伝では聖徳太子の開創と伝えられている。平安時代以降は天台宗となったが、安貞2年、その時の住職である性順が相模国を布教して回っていた親鸞の門に入って浄土真宗に改めたとされている。まさに親鸞56歳である。
 顕誓(けんせい)という戦国時代の僧が永禄11年(1568)に著わした『反故裏書』にも次のようにある。顕誓は蓮如の孫である。

  (親鸞は)相模国あしさげの郡高津の真楽寺、又鎌倉にも居し給と也。

 「あしさげの郡」とは「足下郡」すなわち「足柄下郡」のことである。「高津(こうづ)」は「国府津」のことで、「江津」とも表記した。
 江戸時代の『大谷遺跡録』「勧山信(真)楽寺記」の項には、

  相州足柄下郡国府津信楽院信楽寺は、高祖聖人御化導の旧跡也。高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ。

 とある。親鸞の本拠は稲田であって、折に触れて国府津の地にやってきたとある。これが実情を物語っていよう。

神奈川と親鸞 前編31回

神奈川と親鸞 第三十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

  鎌倉での一切経校合⑹ 一切経を園城寺に納める

園城寺

園城寺

 北条泰時が企画した一切経書写は長い時間をかけつつ、順調に進んだ。これは政子の菩提を弔うのが目的であるが、以前に述べたように、政治的意味合いが濃かった。政子が御家人たちに与えた大恩を、何年もかけて彼らに意識させ続けること。それが泰時の政権の安定につながるからである。この企画は嘉禄元年(1225)に亡くなった政子の3回忌のころから実行に移されたであろうことも前述した。
 嘉禎3年(1237)7月11日、政子の十三回忌法要が盛大に行なわれた。鎌倉の大慈寺では、完成した一切経の供養が行われ、第4代将軍藤原頼経および多数の御家人が出席した。
 大慈寺は三代将軍源実朝が父頼朝の菩提を弔うため、建保2年(1214)に建立した寺である。ちょうど親鸞が越後から関東に移住してきた年である。
 翌年の暦仁元年(1238)、泰時は将軍頼経のお供で上洛した。そのおりの7月11日、泰時はひそかに近江国(滋賀県)の園城寺(三井寺)の唐院(とういん)に、一切経を持参して参詣した。そのことを記した『吾妻鏡』同時条に、次のようにある。文中、「左京兆(さきょうのすけ)」とあるのが泰時のことである。

  左京兆、密々園城寺に参り給ふ。是は去(い)ぬる年、禅定二位家(ぜんじょう・に
  いけ。政子のこと)一十三年御忌景(遠忌のこと)に当たり、彼の恩徳に報い奉らん
  が為、鎌倉に於いて書功(しょのく)を終る所の一切経五千余巻、今日また件(くだん)
  の御月忌(命日)を迎へ唐院霊場に納め奉らるに依るなり。

 園城寺は政子や義時と親しかった寺院である。唐院とは平安時代以来、主に中国から渡来した宝物を納めておく所であった。現在でも園城寺でもっとも重要な位置にある。泰時は一切経の全巻それぞれの奥に自分の花押を書き、伯母政子の菩提とともに幕府の安定を願って納めたのである。