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神奈川と親鸞 前編25回
神奈川と親鸞 第二十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑸ 親鸞の『教行信証』執筆
元仁元年(一二二四)、五十二歳の親鸞は『教行信証』を執筆した。このことは二つの面で鎌倉での一切経校合という機会を得る後押しをした。
『教行信証』は略称で、正式の書名は『顕浄土真実教行証文類』である。この中に「信」という漢字は入っておらず、覚如以前は『教行証』と略称していた。また現在、真宗大谷派では『御本書』、浄土真宗本願寺派では『御本典』と略称することがある。ちなみに『教行証御書』という書物があるが、これは法華信仰を説いた日蓮の著作である。
『顕浄土真実教行証文類』とは、「極楽浄土が確かに存在することを顕かにする、教えと修行とその結果の証し(極楽往生)を示す文、を集めて作成した書物」という意味である。つまり仏教の世界においては、ある僧が「私はこう考えます」と主張しても説得力はない。「あのお経やこのお経にこのように書かれています。それにもとづけばこうなります」と説いて初めて、説得力を持つのである。このような内容の本を「文類」という。
多くの仏教書からの引用文でまとめた本はたくさん書かれた。しかも、文類では引用文が圧倒的に多い。自分の文章(地の文)はほんのわずかである。
親鸞は師匠法然の念仏説を理論的に充実させるため、諸経典や解説書類を常陸国の稲田神社を始めとする諸寺社に求め、それらを読んで執筆を進め『教行信証』を執筆した。その噂は宇都宮頼綱の耳にも入っていたはずである。頼綱は実信房蓮生と号した法然の門弟であり、しかもその当時は法然の門弟善慧房証空の門に入って教えを受けていた身である。「多数の経典を読み、検討している智者学生親鸞」は頼綱としても泰時に推薦しやすい。
親鸞にしても、『教行信証』が元仁元年の時に完成したとは考えていなかった。七十八歳のころまで加除訂正を加えた。鎌倉で一切経の校合ができるのはまたとない機会である。それこそ泰時の威勢で無数といっていいくらいの経典類を集めてもらえ、それらを読めるからである。親鸞は泰時の要請を喜んで受けたであろう。
神奈川と親鸞 前編24回
神奈川と親鸞 第二十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑷ 親鸞の一切経校合―『口伝鈔』から➁―
『口伝抄』の一切経校合に関する記事は、次の文章で始まっている。
西明寺の禅門の祖父武蔵守泰時世をとりて政徳をもはらにせしころ、一切経を校合せられき。
これを校合のために智者学生たらん僧を崛請あるべしとて、
「北条時頼(「西明寺の禅門」)の祖父武蔵守北条泰時が執権としてよい政治を行なっていた時、一切経校合の企画を立てられました。そのために、経典についてよく知っている僧を招こうと」武藤左衛門入道と屋戸やの入道(宿屋入道)を担当者として探させたところ、
ことの縁ありて聖人をたづねいだしたてまつりき。
「ある縁があって親鸞聖人が適当な人物として見つかりました」。
泰時が一切経校合を企てた理由は、本連載第二十二回で述べた。校合してくれる僧は、優れた知識・識見があり、また信頼できる人の推薦がなくてはなるまい。泰時の信頼できる人とは、叔父の北条時房、評定衆の二階堂行盛そして宇都宮頼綱あたりであろう(本連載の第十三回・第十六回参照)。そして頼綱から親鸞が推薦されたと私は推定している。
親鸞が一切経校合を始めたのは、五十六歳の安貞二年(一二二八)からではないだろうか。その理由は第一に、北条政子の三回忌法要が前年に行なわれ、次の法要として一切経校合・書写が企画されたであろうこと(本連載第二十二回参照)である。第二の理由は、四十二歳で関東へ入ってから相模国にはまったく姿を見せなかった親鸞が、特に五十六歳ころから突然のように相模国で活動を始めた気配だからである。その状況については、いずれ述べる。
覚如自筆の『親鸞伝絵』には一切経校合の記事は出てこない。室町時代前期または江戸時代初期に作成された『親鸞伝絵』の一本(『善信聖人親鸞伝絵』)には一切経校合の段が加えられ、泰時が一切経校合を企て、親鸞が選ばれ、「五千余巻」の経典を校合し泰時の願いを遂げさせたとある。
神奈川と親鸞 前編23回
神奈川と親鸞 第二十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑶ 親鸞の一切経校合―『口伝抄』から➀―
覚如の『口伝抄』に親鸞の一切経校合の話が出てくる。この『口伝抄』は覚如の考えを述べたものには違いないけれども、実は高弟の乗専が覚如の講義を筆記したものである。覚如は、元弘元年(一三三一)十一月の報恩講で二十一日から二十八日までの七日間、浄土真宗の教義や歴史について講義をした。乗乗はそれを筆記し、翌年二月に清書し終わった。当然、覚如への問い合わせの上であろう。本書の内容は、『口伝抄』の最初に、
本願寺の鸞聖人、如信上人に対しましましてをりをりの御物語の条々。
「本願寺親鸞聖人が如信上人に向って機会あるごとに語られた多くの話」を、覚如が如信から伝えられたもの、というのである。如信は親鸞の孫で、親鸞を慕い、親鸞から多くを学ぶ意欲の強かった人物である。覚如は親鸞を本願寺第一世、如信を第二世に据え、自らを第三世としている。『最須敬重絵詞』に、
一すぢに聖人の教示を信仰する外に他事なし。これによりて幼年の昔より長大の後にいたるまで、
禅牀のあたりをはなれず、学窓の中にちかづき給ければ、
自の望にて開示にあづかりたまふ事も時をえらばず、他のために説化し給ときも、
その座にもれ給ことなかりければ、聞法の功もおほくつもり、能持の徳も人にこえ給けり。
「親鸞聖人の教えだけを信じ大切にする以外のことはありませんでした。このことから、幼い時から成人した後も、聖人が座る腰掛付近を離れず、聖人が勉強している部屋に入っていました。それで折に触れては聖人に質問して教えてもらい、また聖人が他の人に教えてている時も、必ずその席にいました。そこで聖人の心からの教えを多く受け取り、その教えはすべて記憶することは普通の人を超えていました」とある。
『最須敬重絵詞』は覚如の伝記で、著者は『口伝抄』の筆記者と同じく乗専である。乗専は、如信を尊敬する覚如の気持、また第二世に据えた政治的意図も十分に理解していたであろう。そのことも念頭に置いて『口伝抄』の一切経校合の記事を見ていきたい。
神奈川と親鸞 前編22回
神奈川と親鸞 第二十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑵ 北条泰時の一切経校合・書写事業
元仁元年(一二二四)、執権に就任した北条泰時の政治的立場は弱かった。翌年に泰時を強力に推していた叔母の政子が亡くなると、状況はさらに悪化した。泰時は、この危機を叔父時房を連署に据え、評定衆を設置して有力御家人を幕政に結集させ、幕府を宇都宮辻子に移すなどして乗り切る態勢を作った(本連載第十三回)。
また泰時は政子の法要を盛大に催し続けた。政子は幕府を創設した源頼朝の妻であって、「頼朝後家」の権威は大きかった。加えて、承久三年(一二二一)の承久の乱では卓越した指導力で幕府軍を勝利に導いた。御家人にとっては無条件に崇敬の対象であった。その政子の法要であってみれば、反泰時の北条氏でも御家人でも、参加せざるを得ない。そしてその主催者は泰時である。法要ごとに泰時の指導力は増そうというものである。
政子の法要は嘉禄元年(一二二五)政子没直後の大法要、翌年の一周忌法要、翌々年の三回忌法要と連年続いた。その後毎年の年忌法要は行なうにしても、次の大きな法要は、寛喜三年(一二三一)を待たねばならない。そこで泰時が注目したのが一切経の奉納であったと推定する。一切経の法要は、前回に述べたように、故人の追善供養であり、また国家の安泰を願うものであった。まさに政子追慕にはぴったりの事業である。
一切経は宋からの輸入が不可能ではない(宋版一切経)。しかし泰時は校合・書写・奉納という道を選んだ。その方が世の中に政子の恩徳を思い出させ続けられるからである。
すでに奈良時代から一切経供会という法要があった。すべての経典を前面に出しての法要である。鎌倉においても、『吾妻鏡』によれば建久五年(一一九二)、元久三年(一二〇六)、承元二年(一二〇八)、承元五年(一二一一)、建暦二年(一二一二)、建保四年(一二一六)、建保五年(一二一七)と鶴岡八幡宮寺で行なわれたが、以後途絶えた。それが寛喜元年(一二二九)七月十一日、突然のように鎌倉・勝長寿院で政子のための一切経会が行なわれている。以後のことについてはいずれ述べる(予定では本連載の第三十回にて)。
神奈川と親鸞 前編21回
神奈川と親鸞 第二十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑴ 一切経とその校合とは
覚如の『口伝抄』に、親鸞が執権北条泰時の依頼で一切経の経合を行なったとある。第二次大戦後の長い間、これは覚如の作り話だろうとされてきた。理由は、親鸞は庶民の味方、庶民を圧迫する権力者の仕事を手伝うはずがない、ということであった。しかし親鸞が信奉した阿弥陀仏は庶民だから救う、権力者だから救わないなどと説いてはいない。すべての人々を救う存在のはずである。当然、親鸞もすべての人々に救いを説いたであろう。
近年では親鸞の一切経校合は事実だったのではないか、という見方が広まりつつある。この連載では、すなおに『口伝抄』の記事とそれに関わる周囲の状況を検討していきたい。
一切経というのは何であろうか。一切経という名称の経典があるのではなく、経典一切、すべての経典という意味である。大蔵経と同じである。大蔵経も経典名ではない。
一切経には、釈迦の教えを記した「経」と、修行者の集団(サンガ)を維持するための罰則の「律」、それらの解説書の「論」、そして「経」「律」「論」の注釈書も含まれている。一切経の目録では、中国の唐の貞元十六年(西暦八〇〇年)に完成した『貞元新定釈教目録』がもっとも尊重されてきた。そこには五千巻近くが収められている。朝鮮の高麗で出版された『高麗八万大蔵経』(高麗大蔵経)も日本に影響を与えている。
一切経作成のためには、多数の経典類を書写する必要があるし、その前に同じ経典を多く集めて誤字・脱字等を正さねばならない。経典類は書写を繰り返しているので、誤持・脱字等が生じがちだったからである。これを正す作業が校合である。そのためには広い知識と優れた識見が必要である。その上での一切経書写と奉納は、大事業であるがゆえに仏の大きな恩恵が期待された。その恩恵とは国家防衛・国家安定であった。
日本においても一切経書写や奉納は奈良時代から行なわれている。その際には、国家安定を意識しつつも、身近な人の追善供養が主な目的となっていた。
北条泰時はその一切経奉納事業を企て、親鸞が校合を担当したということである。