Web連載「神奈川と親鸞」「法然聖人とその門弟の教学」

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今井雅晴先生「神奈川と親鸞」

前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」

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神奈川と親鸞 前編第5回

神奈川と親鸞 前編第5回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

親鸞を知るために ⑷ 妻の恵信尼

恵信尼恵信尼像。石川県白山市・正壽寺蔵

 殿のひへのやまにだうそうつとめておはしましけるが、(恵信尼書状第3通)、
 「夫の親鸞は(29歳の時に)比叡山で堂僧という仕事をしておられましたが」と、82歳の恵信尼は娘の覚信尼に手紙で書き送っている。「殿」とは夫のことである。親鸞はこの前年に亡くなっている。おそらく親鸞31歳ころ、恵信尼22歳ころに結婚したであろう二人は、以後60年にわたってお互いを妻、夫として意識していた。

 恵信尼は親鸞のよき妻であった、というのがいままでの見方であった。私もそれを疑うものではない。ただし、「恵信尼はよく夫に仕えていた」ということではない。当時、現代に近い形で男女はそれぞれ自立していた。家来の主人に対する態度のような、「仕える」ということは望まれていなかった。また、恵信尼は越後の豪族の娘であったという見方も、現在では通用しないであろう。彼女は京都の中級貴族三善為教の娘であった。

 恵信尼は京都で親鸞と結婚し、越後流罪にも同行し、関東での20年間にわたる布教活動でも行をともにした。この間、5人の子どもを育て上げた。しかも、恵信尼がいなければ布教の成果は乏しいものになったのではないかと私は考えている。恵信尼はよき妻であった。それは親鸞が信仰の境地を深め、布教の実を上げることにおいてである。

 恵信尼の祖父三善為康は、来世の極楽往生を熱心に望んでいた。彼は「往生極楽は信心にあり」と言い、信心に基づいて念仏を称えれていれば「十即十生、百即百生(十人でも百人でも一人も漏れることがなく極楽往生できますよ)」と強く言い切っている。つまり、三善家には信心の念仏の伝統があったのである。また恵信尼は親鸞よりも先に、家族ぐるみで法然の教えを受けていた。つまり恵信尼は親鸞に出会う前から、信心の念仏の何たるかをよく知っていたのである。

 恵信尼は貴族である。親鸞も貴族出身である。当時、貴族の妻のあるべき姿は、家事・育児に優れていることではなかった。夫の相談相手になれることであった。親鸞にとってもっともも重要なことは信心の念仏だったから、恵信尼は結婚の最初から心強い妻であったのである。

神奈川と親鸞 前編第4回

神奈川と親鸞 前編第4回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

親鸞を知るために ⑶ 信心と報謝の念仏

専修寺対面所阿弥陀如来立像 説法印の阿弥陀如来立像。群馬県真岡市高田・専修寺蔵

  弥陀の本願信ずべし。
 「阿弥陀仏の本願を信じましょう」。これは親鸞の「夢告讃(むこくさん)」の第1句の文章である。「夢告讃」は、親鸞最晩年の85歳の時に作った『正像末浄土和讃』全85首の和讃(4句で作られている仏を褒めたたえる和文の詩)の前に置かれている。
 親鸞が一生をかけて大切にしたのは、「阿弥陀仏のすべての人々を救おうという願い」を信じる心であった。その信心があれば念仏は口をついて出てくるというのである。
 専修念仏を説いた法然には多くの門弟がいた。その門弟たちの間で問題になったのは、「念仏は心こめて一回称えればいい」という意見と、「いや死ぬまで称え続けなければだめだ」という意見の対立であった。前者を一念義(いちねんぎ)、後者を多念義という。親鸞は、回数にとらわれず信心を大切にして念仏を称えるという立場であった。
 加えて親鸞が大切にしたのは、報謝の心で念仏を称えることだった。報謝というのは阿弥陀仏に救っていただけることに感謝し、それに報いよう(お返しをしよう)ということである。『正像末和讃』の最後は次の和讃で結ばれている。

  如来大悲の恩徳は
   身を粉にしても報ずべし。
   師主知識の恩徳も
   ほねをくだきても謝すべし。

 「阿弥陀如来の慈悲の心から与えられた御恩には、身が粉になるほど努力してお返しをしましょう。師匠からの導きの御恩にも骨が砕けるほど努力してお返しをしましょう」。
 これは真宗門徒の間でよく知られた「恩徳讃(おんどくさん)」である。門徒は、法要の最後に必ずこの「恩徳讃」を唱和するのである。また年間の法要でもっとも大切なのは、報恩講である。
 親鸞の信仰は、念仏を信心と報謝で称えるところに特色があったのである。

神奈川と親鸞 前編第3回

神奈川と親鸞 前編第3回 筑波大学名誉教授 今井雅晴

親鸞を知るために ⑵ 師匠の法然

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吉水草庵の跡とされる法垂窟(ほうたるの・いわや)

 

たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。 (『歎異抄第2章』)

「法然上人が嘘をおつきになるはずはありません。でも、仮りに、「念仏を称えれば極楽往生できます」と仰っているのが嘘であって、あの恐ろしい地獄に堕ちてしまっても私親鸞は決して後悔は致しません」。

現代の私たちとは異なり、当時の人たちは未来永劫に火に焼かれ赤鬼青鬼に責めたてられる地獄はほんとうに存在する、と思っていたのである。悩みが多く、この世への執着心が強く、悪人である自分は地獄に堕ちるのは決定的だ、と親鸞は覚悟していた。その自分を法然は救ってくれた。この人を信じようと親鸞が決心したのは、29歳の時であった。

親鸞は9歳で出家し、比叡山延暦寺で少年から青年の日々を勉学と修行に明け暮れた。延暦寺では、経典・法要・密教の修法・医学・一般教養等、さまざまに学ばねばならなかった。その中で人生を見とおす智慧を身に付けていき、悟りに至るべく努力するのである。

しかしなかなか悟りに近づけず、かといって教団の中の華やかな地位も得られず、親鸞は苦悩するばかりであった。とうとう29歳で比叡山を下り、京都六角堂での百日間の参籠を経て、東山で専修念仏を説いて有名だった法然を訪ねることにしたのである。

法然は、何も心配はいらない、阿弥陀仏が無限に大きく広い慈悲の心で救って下さる、それにはただ南無阿弥陀仏と称えるだけでよい、と教えた。称名念仏である。念仏だけを称え続けるのが専修念仏である。そのころまで称名念仏はほとんど効果がないと思われていた。しかし法然は、これこそ唯一、無数の悟れない人々が救われる方法であると説いた。いままでとは180度異なる教えである。簡単には信じられるものではないけれども、藁をもすがる思いの親鸞は100日間、法然のもとに通ってその人格に触れ、感動し、この人の説く教えなら間違いないと信じ切った。そしてその感動と信頼は一生の間続いたのである。

神奈川と親鸞 前編第2回

神奈川と親鸞 前編第2回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

親鸞を知るために ⑴ 悪人正機説

歎異抄

『歎異抄』蓮如書写本

 

長い間、親鸞といえば悪人正機説、悪人正機説といえば親鸞ということで知られてきた。それが常識でもあった。しかし私は本連載の前回、つまり第1回の最後に「古い常識は通用しないこともある」と書いた。それがまさにこの悪人正機説に当てはまるのである。

悪人正機説とは、『歎異抄』第三章に、

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

「善人でさえ極楽往生できるのですから、まして悪人が往生できないはずがありましょうか」とある内容である。この場合の善人とはは、極楽往生のために善行を積んでいる人で、悪人はそれが積めずに悪い行ないを繰り返してしまう人のことである。親鸞自身、悪いことばかり繰り返す罪の自覚には非常に深いものがあった。

ところがこの悪人正機説は、常識とは異なり、実は親鸞だけの思想ではなくて師匠の法然とその門下に広まっていた思想であった。それはもうかなり前に明らかにされている(末木文美士『日本仏教思想史論考』大蔵出版、1993年)が、世の中にはあまり広まっていない。

もう一つ、今日の常識と異なることがある。それは当時、「悪」とは「倫理的・道徳的に行なってはいけないこと、というだけではなかった」ことである。なんと褒め言葉でもあったのである。

鎌倉悪源太(かまくらの・あくげんた)と呼ばれた源義平。同じく悪左大臣の藤原頼長。悪禅師の源全成。悪七兵衛の藤原景清。悪権守の下妻広幹。彼らは皆、信じられないくらい戦争が得意で(義平)、学問がよくでき(頼長)、武芸が強い(全成、景清、広幹)と褒められていたのである。

つまり人間世界の外に人智を超えた大きな力があって、人間に働きかけ、それがよい結果になれば褒められ、悪い結果になれば非難される。人間は自分で自分を左右したり、救ったりすることはできない。それが当時の人たちの考えで、その苦しさの前にこそ絶対的な力持つ阿弥陀仏の救いが示された。それが悪人正機説であったと私は考えている。

神奈川と親鸞 前編第1回

神奈川と親鸞 前編第1回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

連載にあたって

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童形(どうぎょう)の親鸞立像。京都市・誕生院

 

親鸞は鎌倉時代の念仏僧である。彼は浄土真宗の開祖として、その思想は悪人正機説として知られている。阿弥陀仏がほんとうの救いの対象にしているのは、善人ではなく悪人であるというのである。また門弟の唯円の『歎異抄』によっても、親鸞は有名である。

親鸞は、いまから八百数十年前の平安時代末期、承安3年(1173)に京都の中級貴族日野有範の子として生まれた。9歳で出家し、29歳で法然という念仏僧に出会って念仏の道に入った。35歳で越後に流されたが、数年後に許され、42歳で関東の常陸国(茨城県)に移って本格的な念仏布教の活動を進めた。親鸞の門弟たちの多くは関東で生まれている。また親鸞の主著である『教行信証』もこの関東で書かれた。

親鸞は60歳のころに京都に戻り、鎌倉時代の中期の弘長2年(1262)に90歳の長寿を保って亡くなった。京都ではあまり積極的に布教活動を進めた気配がない。関東での活動がなければ今日の浄土真宗はなかったであろうし、親鸞その人もあまり知られることはなかったであろう。

同じ関東でも、いままで、神奈川県と親鸞との関係は希薄であった。親鸞の伝記を語る場合には、彼が京都へ帰る途中の通過地点としか意識されてこなかったように思う。しかし実際のところ、親鸞は55、6歳の時から突然のように神奈川県に姿を現わし、以後積極的に活動を行なった気配がある。つまり神奈川県(相模国と武蔵国の一部)での活動は関東時代の後半、全体の三分の一にも及んでいる。ということは、親鸞の宗教にかつての神奈川県の人々も大きな影響を与えたということが推測される。

以上の認識のもとに、本連載は神奈川県と親鸞との関係を、県内に残る親鸞の遺跡を手がかりに明らかにしていこうとするものである。付け加えれば、歴史学・国文学・地理学等、親鸞の伝記研究を豊かにする学問分野は、日々新しい成果をあげてきている。古い常識は通用しないこともある。本連載はそれらの成果を参考にしながら進めていきたい。

本連載は毎週1回ずつ掲載していく。全体は前編・本編・後編の三部構成にし、前編は親鸞が神奈川県に姿を現わすまでを約30回にわたって掲載する。本編は親鸞と神奈川との直接のつながりを約40回にわたって、後篇は帰京後の親鸞と神奈川との関係を約10回にわたって掲載する予定である。合計約80回、1年半の長丁場であるが、お読みいただければ幸いである。