今井雅晴先生「神奈川と親鸞」
前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」
今井雅晴先生「神奈川と親鸞」
前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」
神奈川と親鸞 第六十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑶─流罪の途中で飯山に留まる─
嘉禄3年(1227)6月、延暦寺の僧たちが東山の法然の墓を暴こうとした。しかし六波羅探題の北条時氏に阻止され、遺骸は宇都宮頼綱等に守られて二尊院に運ばれている。
翌7月4日、後堀河天皇の綸旨が延暦寺に下された。それには、まず、延暦寺の僧たちは乱暴な行動を止めるようにとあった。続いて専修念仏者の隆寛を陸奥国に、空阿を薩摩国に、成覚を壱岐国に流すと記されていた。こうして80歳の隆寛は陸奥国に向かった。
当時、流罪は本人が勝手に流罪地に行くのではない。必ず護送役が連れて行くのである。流刑地への道も分からない者が一人で行けるはずもないし、受け入れ先の国の国府でも、いきなり流人が現われても戸惑うばかりである。護送役が書類等持参の上、送り届けるのである。その護送役を領送使といった。主に検非違使の者がその役に当たった。
隆寛を連れて行く領送使は、毛利季光という武士であった。彼は鎌倉幕府の政所の別当(長官)大江広元の息子であった。季光は当時26歳、護送中に隆寛の説く専修念仏の教えに感動し、すっかり隆寛に帰依するに至った。その感動のあまり、自分の領地が相模国の毛利荘にあったので隆寛にそこに留まってもらうことにしたのである。
ところで陸奥国へ流すという綸旨は無視することはできない。そこで代わりに隆寛の門弟実成房が陸奥に向かっている。しかし陸奥国府の役人に「隆寛の代わりに来ました」ということはできないし、なんらかの工作はあったのであろう。光福寺の伝えによれば、実成房は隆寛の実子であったという。
高齢の長旅のためか、精神的な疲れからか、隆寛は引き込んだ風邪がもとでその年の12月13日に亡くなった。終焉の地は厚木市飯山・光福寺の地であったとされている。同寺境内に隆寛の墓所が現存し、新らしい物であるが隆寛坐像も同寺本堂に安置されている。
ちなみに、流罪の親鸞も一人で雪の中をよろよろ歩いて越後国に向かったのではなく、領送使が安全に送り届けたのであることを再確認しておきたい。
神奈川と親鸞 第六十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑵─嘉禄の法難のはじまり─
厚木市飯山・光福寺に墓所のある隆寛は、延暦寺の専修念仏者への弾圧である嘉禄の法難の始まりを作った一人である。
嘉禄元年(1225)、上野国から延暦寺にやってきた定照という学僧が『弾選択』(だんせんじゃく)という文書を作り、それを京都東山の長楽寺に住んで専修念仏を説いている隆寛に送りつけた。
「弾選択」というのは、「法然の『選択本願念仏集』の説くところが間違いであると強く非難する」と言う意味である。定照は延暦寺の中で竪者(りっしゃ)という役職にいた。竪者とは、延暦寺や興福寺の問答形式の法会で、質問に答えて正しく教義を説明する役職である。延暦寺は天台宗の本山であるから、竪者は天台教義に関する重大な責任ある役職ということになる。『弾選択』はその役職の者が専修念仏を公式に非難した文書ということである。
隆寛は強く憤慨し、翌年の嘉禄2年、『顕選択』を書いて『弾選択』に答えた。『選択本願念仏集』がいかに正しいかを主張したのである。この中で隆寛は定照に手ひどく悪口を浴びせ、
汝の僻破(へきは)の中(あた)らざることは、暗天の飛礫(ひれき)の如し。
「貴公の下手な非難は的外れで当たっていない。まるで暗闇で飛ばすつぶてのようなものだ」と嘲ったのである。隆寛はこの時すでに八十歳になっており、かなり性格の激しい人物であった。ふだんから専修念仏者たちに勢いを苦々しく思っていた延暦寺の僧たちは、これを聞いてかんかんに怒ったという。
嘉禄3年(1227)6月、延暦寺を構成する東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)という3地域の僧侶が集合し、「専修念仏を停廃すべし」止めさせようと決議したのが嘉禄の法難のはじまりである。
神奈川と親鸞 第六十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
光福寺と隆寛⑴─親鸞の法兄─
親鸞は60歳で帰京した。その後、年未詳2月3日付で常陸の門弟に送った手紙に、
京にも、一念多念なんどまふす、あらそふことのおほくてさふらふやうにあること、
さらさらさふらふべからず。ただ詮ずるところは、唯信抄、後世物語、自力他力、
この御文どもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。
「京都でも、「念仏は心をこめてただ1回称えれば極楽往生できる」、「いやできるだけ多くの回数を称えなければ往生できない」という争いが多いのです。これはまったくあってはならないことです。結局のところ、『唯信抄』『後世物語(後世物語聞書)』『自力他力(自力他力分別事)』をふだんからよく読んで、その意としている精神に違うことなくしておいでください」という文がある。
この中で、『唯信抄』は親鸞の法兄聖覚の著で、『後世物語聞書』と『自力他力分別事』はもう一人の法兄の隆寛の著である。親鸞は隆寛を尊敬しており、関東の門弟たちにも隆寛の名は知られていたのである。その隆寛は厚木の地で亡くなり、墓所が厚木市飯山・光福寺にある。光福寺には隆寛坐像も安置されている。
隆寛は久安4年(1148)の生まれ、親鸞より25歳の年上である。父は少納言藤原資隆、叔父の皇円は法然の師匠、息子の聖増は慈円の門弟である。
隆寛は出家して皇円の法兄範源の教えを受け、やがて慈円のもとで天台教学を学んだ。後に法然の門に入って専修念仏を学び、1日に三万五千遍の念仏を称えるようになった、そして終には八万四千編を日課とした。元久元年(1204)、法然から『選択本願念仏集』の閲覧・書写を許されている。隆寛はその時57歳、法然にあつく信頼されていた。
隆寛は日常の念仏を重んじていて、毎日数万遍の念仏を称えることで臨終に確かに極楽往生できると説いた。いわゆる多念義である。彼は京都東山の長楽寺に住んだので、その教義は長楽寺義とも呼ばれた。
神奈川と親鸞 第六十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑺─現代社会の観点から─
大谷大学編『真宗年表』(法蔵館、1973年)を基にして調べると、親鸞82歳から86歳までの5年間に自筆の書物全体の81%が書かれている(書状を除く)。そしてその間の83歳から85歳までの3年間に、なんと全体の62%が書かれているのである。これは、なぜか。それは善鸞の問題に心を痛めたからであるという見方が、善鸞義絶があった、なかった、という両方の意見の人たちでほぼ一致している。この時期はちょうど善鸞問題があった時期である。
善鸞が関東へ行って念仏の問題を鎮められず、かえって騒ぎを大きくしたことは事実だったようである。親鸞は息子が期待した成果を上げてくれなかったことに対し、自分の指導が足りなかったのではないかと悩んだ。親しかるべき息子さえ説得できなかった自分の信仰とは何であったのかと悩み、若いころからの信仰を振り返った。その際、かつて書いた文章をもう一度書き、また思うところを新たに書いて信仰を確認した。その結果が多数の自筆本執筆となったのであろう、ということである。
すると、現代にこのように多数の親鸞自筆本が遺ってするのは誰のおかげか。むろん親鸞のおかげであるけれども、善鸞がいなければそれらは存在しなかったのではないか。なんと現代の私たちにとって息子善鸞はありがたい存在と見直すべきではないか、ということなのである。
また善鸞は、本願寺教団でいえば、親鸞に続く第二世如信をこの世に生み出してくれた人物である。善鸞がいなければ如信はいなかったのである。
現代は子どもは宝、大切にしようとする意識が高まっている時代である。その観点からも善鸞問題を見直すべきである。親と子は、いつもにっこり笑顔でいるだけが望ましい関係ではない。親鸞と善鸞は多大な遺産を現代の日本、そして世界に遺してくれたのである。それは親子の葛藤の中から生まれたものであった。
神奈川と親鸞 第六十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑹─親鸞の親子観─
親鸞が善鸞を義絶したのは83、4歳のころとされてきた。義絶とは親が親子の縁を切ることであるから、父親が息子を捨てるということである。親鸞においてそのようなことがあり得たであろうか。
親鸞には聖徳太子を讃える「聖徳太子和讃」がある。『皇太子聖徳奉讃』75首、同名の『皇太子所得奉讃』11首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首である。うち、全11首の方の『聖徳太子奉讃』は親鸞88歳の時の作といわれている。
その中の第2首に次の和讃がある。
救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して
多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ
「救世観音は聖徳太子の姿をとってこの世に現われ、お父さんのように私たちを捨てないで、お母さんのように私たちに寄り添ってくださる」。
「多々」とはサンスクリット語で「父」のこと、「阿摩」の同じくサンスクリット語の「母」のことである。ただ、「多々」「阿摩」というやさしい音からは「お父ちゃん」「お母ちゃん」を思わせる。
親鸞は9歳の時に出家した。父の政治的失敗という理由はともかく、親鸞自身としては「父に捨てられた」と思い、「母が一緒にいてくれない」と一人泣く夜もあったのではないだろうか。父は子どもを捨ててはいけないのである。このように説く親鸞が、その4年ほど前に息子善鸞を捨てていただろうか。
なお、いわゆる「善鸞義絶状」は大正年間に発見されたもので、写本である。親鸞の真筆ではない。偽文書ではないかという意見が強くある。また門弟の性信に義絶を知らせたという「義絶通告状」は室町時代の出版物で初めて世に現われたものである(版本)。こちらも真筆はない。