Web連載「神奈川と親鸞」「法然聖人とその門弟の教学」

このエントリーをはてなブックマークに追加

今井雅晴先生「神奈川と親鸞」

前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」

ニュース

神奈川と親鸞 前編40回

神奈川と親鸞 第四十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

六老僧了源と善福寺⑵─大磯の遊女虎─

安藤広重画「東海道五十三次之内 大磯」

安藤広重画「東海道五十三次之内 大磯」

 前回、富士の裾野の仇討事件と、曽我十郎祐成と弟の曽我五郎時致を紹介した。祐成には虎という名の妻がいた。虎は、事件が起きた3日後の建久4年(1193)6月1日、鎌倉幕府で尋問されている。『吾妻鏡』同日条に次のようにある。【】内は本文の割注である。
  曽我十郎祐成の妾(しょう)、大磯の遊女(あそびめ)【虎と号す】
  召し出さると雖(いえど)も、口状(くじょう)の如くんば、
  その咎なきの間、放ち遣はされ畢(おはん)ぬ。
 「虎という名の祐成の妻が幕府に呼び出されましたが、彼女の弁明の内容を聞くと咎められることはないので、無罪放免されました」。
 「妾」というのは、後世とは異なり、単に「妻」という意味である。身分が比較的低い出身の女性をいう。また「遊女」も、後世のように「卑しい仕事をしている女性」ではない。「あそびめ」は神仏に仕える女性という意味であり、決して卑しい女性とは思われていなかった。むしろ神仏に近い存在と考えられていたのである。『吾妻鏡』同月18日条に、
  故曽我十郎妾【大磯の虎。髪を除かずと雖も黒衣・袈裟を着す】三七日忌辰を迎へ
  箱根山の別当行実(ぎょうじつ)の坊において仏事を修す。(中略)葦毛(あしげ)の馬
  一匹を唱導の施物(せもつ)等と為す。件(くだん)の馬は祐成最後に虎に与ふる所
  なり。則ち今日出家を遂げ、信濃国善光寺に赴く。時に、年十九歳なり。見聞の
  緇素(しそ)、悲涙を拭はざるはなし。
 「虎は夫の三七日を迎えて箱根権現の別当行実の所で法要を行ない、祐成が最後に虎に与えた馬などを布施として差し出しました。そして出家し信濃国の善光寺に向かいました。19歳でした。それを見、また聞いた僧侶や一般の人は皆、虎の悲運に泣かない人はいませんでした」。
 実は虎は懐妊しており、やがて生まれたのが善福寺の了源であったという。

神奈川と親鸞 前編38回(訂正)

神奈川と親鸞 第三十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

佐々木高綱と茅ヶ崎の上正寺⑶─聖徳太子像─

南無仏太子像。茅ヶ崎市・上正寺蔵

南無仏太子像。茅ヶ崎市・上正寺蔵

 浄土真宗寺院では、聖徳太子の画像または彫像を本堂の内陣に安置することが一般的である。聖徳太子に対する崇敬心は平安時代中期に天台宗の世界で始まった。鎌倉時代に活躍した天台宗出身の法然・証空・親鸞・一遍らには皆強い聖徳太子信仰があった。ひとり親鸞だけではない。それなのに、親鸞以降の浄土真宗で聖徳太子信仰が強調されていくことには、特別の理由があったということであろう。
 聖徳太子像は、一般的に次の6種類の姿で表現される。
⑴ 南無仏太子像(南無太子像)。2歳
 太子は2歳の時の春2月15日に、東を向いて合掌し、「南無仏」と唱えたという。その姿を表現したのが南無仏太子像である。上半身は裸で、下半身には緋色の裳(も)をつけている。

⑵ 童子形(ぎょう)太子像。7歳
 学問を始めた年という。

⑶ 孝養(きょうよう)太子像。16歳
 父用明天皇の病気平癒を祈願する姿を表わしたもの。両手で香炉を捧げている。

⑷ 馬上太子像 16歳
 仏教を広めることに反対した物部守屋を討った時の姿。

⑸ 摂政太子像 30歳
 伯母推古天皇の摂政として政治を行なった姿を表わしたもの。両手で笏を持つ。

⑹ 講讃太子像 35歳
 『勝鬘経』の講義を推古天皇に行なった時の姿。袈裟を着け宝冠を被っている。上正寺の聖徳太子像は南無仏太子像で江戸時代初期に制作されたと推定される。目の光に威厳のある太子像である。

神奈川と親鸞 前編39回

神奈川と親鸞 第三十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

六老僧了源と善福寺⑴─曽我兄弟の仇討─

歌川国芳画「曽我兄弟」

歌川国芳画「曽我兄弟」

大磯町高麗の善福寺の開基は、寺伝によれば親鸞の親しい門弟であった平塚入道了源である。了源は、後に親鸞の関東六老僧の一人として知られるようになっている。
 また了源は仇討で有名な曽我兄弟の兄の方の息子であったという。この兄弟は伊豆東海岸の豪族伊東祐親の孫でもあった。祐親は、源頼朝の最初の息子千鶴丸(ちづるまる)を殺している。千鶴丸は祐経自身の孫でもあった。以下に関係系図を記す。×印は頼朝との関係で、▲印は仇討関係で殺された人物である。

伊東祐親×┬祐清×
                   ├女子
                   │ ┣千鶴丸×
                   │源頼朝
                   ├女子
                   │ ┃
                   │工藤祐経▲
                   └河津三郎祐泰▲┬曽我十郎祐成▲─河津三郎信之
                                                   ├曽我五郎時致▲ 
                                                   └小次郎×

 曽我兄弟の仇討とは、領地争いで祐親を恨んだ祐経が、祐親の嫡男祐泰を殺し、祐泰の息子祐成と時致が成人後に祐経を討った事件である。仇討は源頼朝の富士の裾野での巻き狩りの場面で決行された。祐経を討った後、五郎時致は頼朝の宿所に斬り込もうとする。仇討は、北条時政が時致を使って頼朝を討つ計画が背後にあったともいう。
 この時代は殺し合いが多かったものだ、しかも近い親戚の間で、と思わざるを得ない。十郎祐成の遺児三郎信之が善福寺の了源であったという。

神奈川と親鸞 前編37回

神奈川と親鸞 第三十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

佐々木高綱と茅ヶ崎の上正寺⑵─親鸞の門弟─

上正寺本堂。茅ヶ崎市小和田

上正寺本堂。茅ヶ崎市小和田

 神奈川県には親鸞との直接の由緒を語る浄土真宗寺院がいくつかある。茅ヶ崎市小和田の上正寺もその一つである。元禄15年(1702)上正寺第14世住職円春(春岸)が筆写した『小和田山上正寺略縁起』によれば、村上天皇の第4皇子が現世を厭う心強く、比叡山に登って出家し、尊勝と名のったという。その尊勝が各地をめぐって修行し、その間「相州高座郡寺尾郷(茅ヶ崎市内)に数ヶ所の堂舎を建て、「海円院」と号したという。これが上正寺の始まりとされている。さらにその『上正寺略縁起』に次のように記されている。(【】内は本文中の割注)
  嘉禄年中の住侶道円【或いは了智と号す。俗姓は宇多源氏佐々木四郎高綱】、親鸞聖人
  に謁し【神津】に於いて。今は国府津と云う。出離の要路を問答し、宿因の芳薫にや
  於霊意、帰他力門、聖人自ら染筆して無上正覚寺と名づけましまし、師弟の相続の証
  に十字尊号并六字を給はり、亦鎌倉旅化之せつも当院は救世菩薩垂迹の地なりとて往
  還休給き。
「嘉禄年間(1225〜1228)の住職道円(了智。佐々木高綱)は、国府津で親鸞聖人に入門しました。聖人は海円院を無上正覚寺と改めて下さり、十字尊号(帰命尽十方無㝵光如来)と六字名号(南無阿弥陀仏)を下さいました。また聖人が鎌倉に布教される時も、この寺は救世観音菩薩が姿を現され後ころだからと、往復に休んでいかれました」。
 国府津といえば、小田原市国府津の海岸近くにある「御勧堂」とその石碑が思い起こされる。国府津は親鸞の相模国布教の拠点の一つであったと推測される。もう一つの拠点は鎌倉とその付近である。
 無上正覚寺は後に親鸞の曾孫覚如が東国の親鸞遺跡巡拝の旅に来た時、この寺にも立ち寄り、寺名の五文字を三文字に省略して「上正寺」と改めたと『上正寺略縁起』にある。なお、『新編相模国風土記稿』には「境内太子堂縁起」が出てくるが、これは『上正寺縁起』のことを示すと考えられる。

神奈川と親鸞 前編36回

神奈川と親鸞 第三十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

佐々木高綱と茅ヶ崎の上正寺⑴─源頼朝旗下の勇将─

伝佐々木高綱像。和歌山県高野町・泰雲院蔵

伝佐々木高綱像。和歌山県高野町・泰雲院蔵

 茅ヶ崎市小和田の上正寺は佐々木高綱を開基としている。高綱は源頼朝の挙兵以来の勇将として、その名が知られている。源義経に従って木曽義仲を討つ戦いに参加した時の、宇治川合戦での挿話も有名である。高綱はこの時、頼朝から名を「生唼(いけづき)」という名馬を与えられて参戦していた。そしてこの戦いで梶原景季と先陣を争い、みごとに先に対岸に到着したという。『平家物語』巻第九「宇治川」に、高綱は、

  宇治川早しといへども、一文字にざっと渡して、思ふ所にうちあぐる。鐙踏んはり、
  つ立ちあがり、宇多の天皇に八代の後胤、佐々木の三郎秀義が四男、
  佐々木の四郎高綱。宇治川の先陣、

と名のりをあげたと記されている。
 高綱はその功績によって各地に領地を与えられた。それは周防国・因幡国・伯耆国出雲国・日向国などの諸国にあった。頼朝が重源(ちょうげん)を助けて東大寺の復興にあたった事業では、材木の切り出しに手柄があると賞賛された。相模国での高綱の館は、現在の横浜市港北区鳥山町にある鳥山八幡宮付近にあったとされている。また愛馬「生唼」もその近くに馬頭観音として今でも祭られている。なお平家滅亡後、平清盛の娘で安徳天皇の母であった建礼門院は大原の寂光院に入った。これは『平家物語』でよく知られた話である。その建礼門院亡き後の寂光院院主は、高綱の娘が務めている。
 高綱は建久6年(1195)に高野山大悲金剛院で出家し、家督を息子の重綱に譲った。その後は各地を巡ることが多かったとされ、各地に高綱の由緒が伝えられている。建保2年(2014)、信濃国筑摩郡で亡くなった。現在の長野県松本市である。同市には高綱が建立したという浄土真宗・正行寺がある。そして茅ヶ崎市小和田の上正寺も高綱開基として今日にその伝統を受け継いでいる。