今井雅晴先生「神奈川と親鸞」
前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」
今井雅晴先生「神奈川と親鸞」
前田壽雄先生「法然聖人とその門弟の教学」
神奈川と親鸞 第三十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑹ 正安寺➁報恩講と阿弥陀三尊立像
横浜市栄区長沼町の臨済宗円覚寺派・正安寺は、「親鸞鎌倉入り草鞋脱ぎの寺」という伝えを持っている。またこの寺の本尊である阿弥陀三尊立像(脇侍は観音菩薩と勢至菩薩)には、親鸞が一切経校合の合間に彫ったという伝えがある。阿弥陀如来像の袖には「善信」(親鸞の別名)と刻まれ、花押(サイン)が記されている。
実際のところ、本尊の阿弥陀如来立像は像高九七・五センチ、脇侍の観菩菩薩立像は像高六〇・四センチ、勢至菩薩立像は六一・九センチ、いずれも寄木造りあるいは割矧造りである。割矧造りというのは、一木作りである程度の姿を彫刻した後、前後または左右に割り、内ぐり(体内を削り取る)を施し、また矧ぎ合わせる(くっつける)造り方である。その目的はひび割れの防止にある。木材は年月が経つと乾燥し、ひび割れが起きてしまう。割矧造りはあらかじめそれを防ぐ彫刻方法である。
正安寺の阿弥陀三尊立像は鎌倉時代後期の一三〇〇年ころの制作と推定され、漆箔(漆を塗った上に金箔を付ける)で、鎌倉地方の彫刻の特色が認められる。その特色とは、彫り方が繊細、顔の表情にも現実感が溢れていることである。鎌倉には、すでにその前期から仏師の集団が住み、そこは鎌倉仏所と呼ばれていた。場所は、現在の鎌倉駅の西側を走る今小路を北上し、巽神社から寿福寺のあたりである。本像はそこの鎌倉仏師たちによって造られたものであろう。優れたできばえである。横浜市指定有形文化財に指定されている。
江戸時代、本願寺門主が幕府に参向の折りに、必ず正安寺に立ち寄った。明和六年(一七六九)に金子千疋、天保九年(一八三八)には銀一枚を門主が寄進したも残っている。
また江戸時代以来、四月一日には正安寺では報恩講が行なわれてきた。親鸞との由緒によってである。報恩講は阿弥陀仏のご恩に感謝し、そのご恩に報いる(お返しをする)気持を新たにする、浄土真宗でもっとも重要な法要である。昭和三十年代前半までは、浄土真宗の僧侶が中心になって盛大に行なわれたという。現在でも正安寺の住職が導師となって行なわれている。
神奈川と親鸞 第二十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切教校合⑹ 正安寺➀親鸞鎌倉入り草履脱ぎの寺
横浜市栄区長沼町・正安寺は、「親鸞鎌倉入り草履脱ぎの寺」と言われている。本連載の前回まで、三回にわたって紹介した戸塚区下倉田町・永勝寺のすぐ近くである。長沼町の地域も下倉田町の地域も、もとは相模国鎌倉郡の内であった。鎌倉時代には、北条氏本家の強力な拠点であった山ノ内荘の中にあった。
昭和十四年、両地域を含む鎌倉郡内の一町七箇村が横浜市に入り戸塚区となった。昭和四十四年、こんどは戸塚区から瀬谷区が分区、昭和六十一年には栄区と泉区が分区した。
正安寺は臨済宗円覚寺派の寺である。意外に思われる方もおられるであろうが、日本で各寺院の宗派が固定されたのは江戸時代初期である。これは幕府が本山末寺の制度を定めたことによる。江戸幕府は、戦国時代に一向一揆や法華一揆など仏教勢力が大軍事力を持っていたことを危険視した。そこで各宗派に本山と末寺定めさせ、幕府が本山を把握し、本山に末寺を監視させる体制を作った。以後、末寺が宗派を変更したり、独立したりするのは困難になった。それ以前はどのように宗派が変わろうと問題ではなかったのである。
『長沼山正安寺縁起』によると、正安寺はもと天台宗の寺で能満寺と称していた。親鸞が一切経校合をした時、貞永元年(一二三二)八月、この寺に七日間逗留した。その折り、住職だった浄蓮という僧が親鸞の学識に傾倒し、その門弟となった。以来、天台宗を改めて浄土真宗となったという。村人も親鸞の教えを受けて同行(信徒)になったとされており、能満寺は「親鸞鎌倉入り草鞋ぬぎの寺」と呼ばれるようになったという。
その後、十六世紀の戦国時代、小田原北条氏の弾圧の難を逃れるため、時の住僧海弁は鎌倉の円覚寺に救いを求めた。その後、円覚寺の許可を得て浄土真宗の能満寺から臨済宗の正安寺となって弾圧の憂いを逃れることができたという。
正安寺は臨済宗でありながら、浄土真宗の最重要法要である報恩講が行なわれてきた、珍しい寺である。
神奈川と親鸞 第二十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑸ 永勝寺➂聖徳太子立像
横浜市戸塚区の永勝寺は、親鸞が北条泰時からの依頼で一切経を校合した時、この寺に滞在したとの伝えを持つ。この寺には、泰時から送られて親鸞の愛用であったという枕がある。各地に親鸞が自分で彫ったという阿弥陀仏像や、親鸞像、あるいは使用していた遺品と伝えられる品々があるが、枕というのは珍しい。
また境内には保命水と呼ばれる井戸がある。これは親鸞が自ら掘った井戸で、仏前に供える水を準備するためのものであったとされている。永勝寺の境内は南側から西側に展開する丘の麓に位置している。そのためであろう、湧き水は豊富で、周囲の民家の井戸が枯れることがあっても、保命水は枯れることがなかったという。
さらに、永勝寺の大門の脇にあった松の大木は、親鸞袈裟がけの松と称されていたという。暑い夏に掛けたということであろう。ただし、その大門は現在の境内からは離れた場所にあったようで、大門も松の大木もいまはない。
そして永勝寺の阿弥陀堂には木像の聖徳太子立像が安置されている。この立像は像高一二六、七センチ、寄木造である。親鸞が自ら彫ったとの伝えがある。実際のところは南部屋朝時代の制作と推定される。右手に笏、左手に香炉を持った、聖徳太子十六歳の孝養太子像である。この年、聖徳太子は父用明天皇の病気治癒を祈願した。父の気分をよくしてもらうため、香炉の中に香水を入れて父に捧げるという孝行息子の姿を表わしたのが本像である。教養太子像には、笏を持たず、両手で香炉を捧げている像も多い。
本像は少年らしいさわやかな顔つきを、神経を行き届かせて彫ってある。衣文も巧みに彫り込んである。昭和四十一年(一九六六)七月、神奈川県文化財に指定されている。
親鸞には強い聖徳太子崇敬の念があったという、浄土真宗寺院には聖徳太子画像が掛けられ、また時に聖徳太子立像が安置されている。ただし、聖徳太子に対する宗教的な崇敬の念は、平安時代中期の天台宗から始まったもので、親鸞のころには天台宗あるいは天台宗出身の僧侶であれば必ず崇敬心を抱いていた。その理由、それから親鸞の太子への崇敬心についてはいずれ述べる予定である。
神奈川と親鸞 第二十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑺ 永勝寺➁山内ノ荘と鎌倉街道
親鸞の一切経校合はこの寺でなされたと伝のある永勝寺の所在地は、現在の行政区でいえば横浜市戸塚区の内である。しかしかつては鎌倉郡山ノ内荘という行政区の中にあった。
山ノ内荘(山内荘)とは、鶴岡八幡宮の西にある巨福呂坂(小袋坂)の切通しを北に越えた地域の大荘園で、執権である北条氏の本家(得宗家という)が強く頼りにした軍事拠点であった(現在では巨福呂坂の切通しはなく、聖天坂と呼ぶ坂だけが八幡宮側にある)。
山ノ内荘は、建保元年(一二一三)、北条義時が和田義盛一族を滅ぼした時に手に入れた。鎌倉で事件が起これば、巨福呂坂を経由してすぐ大兵力を投入できるし、危急の場合にはこれまたすぐ逃げ込める。そして山ノ内荘には、北条泰時の常楽寺・時頼の建長寺・時宗の円覚寺・貞時の東慶寺などが次々に建立されていく。永勝寺はこの山ノ内荘にあった。当然、泰時の信頼を得ていたであろう。八幡宮のほぼ真北の方向、約六キロの地点である。
永勝寺の前の道は、かつて鎌倉街道の「中路(中道)」であった。各地から鎌倉へ向かう道はそれぞれが鎌倉街道と呼ばれたと言われているが、それは実際は江戸時代末期以降のことであった。ただ鎌倉時代、御家人たちが鎌倉へ馳せ参ずるための道路は三本にわたって整備された。それは上道(鎌倉から武蔵西部を経て高崎に至り、信濃・越後へ抜ける)、中道(鎌倉から巨福呂坂を越え、武蔵東部を経て下野・奥州へ抜ける)、下道(鎌倉から朝夷奈の切通しを越え、武蔵の東京湾沿いを北上して常陸へ抜ける)と呼ばれていた。
親鸞が常陸稲田から鎌倉へ向かう時、中道と下道のどちらかを使ったであろう。ただ中道の方が少し距離が短かい。また下道は東京湾へ注ぐいくつもの大河川の河口付近を横切っている。洪水等で不通になる危険性も大きい。そこで中道を使ったのではなかろうか。
なお、昭和十四年(一九三九)年四月、旧鎌倉郡内の一町七ヶ村は横浜市と合併して戸塚区となった。現在の横浜市瀬谷区・栄区・泉区は後に戸塚区から分離したものである。横浜市の市域はもと武蔵国に属していたが、戸塚区以下の四区は相模国に属していた。
神奈川と親鸞 第二十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
鎌倉での一切経校合⑹ 永勝寺と親鸞
横浜市戸塚区下倉田町の永勝寺(真宗大谷派)は、もとは鎌倉の甘縄(鎌倉市長谷あたり)にあって天台宗の長延寺と称したという。やがて現在地に移り、親鸞が当地に布教に来た時にそのころの住職が親鸞の教えに帰した。親鸞の一切経校合はこの寺においてなされたとの伝えを持っている寺である(『御相伝略縁起(永勝寺略縁起)』永勝寺蔵)。寺名は戦国時代末期に永勝寺と改めた。
江戸時代の明和八年(一七七一)刊行になる『大谷遺跡録』「臥竜山永勝寺記」の項にも、次のようにある。
当寺は往昔、天台宗の精舎なりき。然るに嘉禄二年の比、高祖聖人当国に遍歴し、
鎌倉に往返して普く群生を化す。 爰に於て寺務これに謁して、専修念仏の法を伝燈す。
聖人御帰洛の砌まで七入箇年【安貞二より文暦元に至る】 当国国府津に通ひ給ふ内、
多くは此にあり。武蔵守泰時蔵経書写の時選挙せられしも、爰にありてなり。
「永勝寺はその昔、天台宗の寺院でした。ところが嘉禄二年(一二二六)のころ、親鸞聖人が相模国をめぐられた時、鎌倉にも何度か行って広く人々に念仏を伝えました。そこで当時の永勝寺の住職も聖人にお目にかかり、専修念仏の教えを受けました。聖人は帰京されるまでの七か年【安貞二年(一二二八)から文暦元年(一二三四)】、相模国国府津に通われたうち、多くの年月はこの永勝寺にいました。武蔵守北条泰時が一切経を書写したときに、聖人が校合の役に選ばれたのも、この永勝寺においてでした」。
安貞二年という年紀と、国府津という地名に注目しておきたい。安貞二年は親鸞五十六歳、幕府では北条政子三回忌法要が終わった翌年である。その意味するところについては本連載第二十二回で述べた。
同じく江戸時代の宝永七年刊行の『遺徳法輪集』、享和三年(一八〇三)刊行の『二十四輩順拝図会』にもほぼ同じ内容の記事が載せてある。