神奈川と親鸞 前編34回

神奈川と親鸞 第三十四回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

国府津の真楽寺⑶ 帰命石

帰命石の複製。真楽寺蔵 

帰命石の複製。真楽寺蔵

 真楽寺はJR国府津駅近く、東海道(国道一号線)に面した所にある。もとは裏手の丘陵の上にあった。このあたりは鎌倉時代から宿場として、また市が開かれる所として栄えていた。丘陵がかなり海に迫っているので、農地を開く余地はほとんどない。東西に延びる東海道を越え、その先の西湘バイパスと呼ぶ道路を越えれば広い太平洋である。
 真楽寺の近くには北から曽我道(国府津道)が南下していて、東海道と直角に交わっていた。この道は相模国西部の山間部と海とを結ぶ重要な街道だった。加えて、府中道や巡礼街道などの街道も国府津で東海道に合流していた。それに、「国府津」というのは、国府に直結する重要な港という意味で、諸国に存在した地名である。相模国の国府がどこにあったのか。候補は複数あるが、いまだ一ヵ所に確定してはいない。しかし現在の小田原市国府津が国府の近くにあり、特に重要な役割を担っていた時代は確実にあったであろう。さらに国府津の港には中国からの貿易船も入港して賑わっていた。
 前回に紹介した蓮如の謡曲『国府津』に、貿易船が積んでいた「高さ七尺・横三尺余の霊石」に親鸞が阿弥陀仏の「十字八字」の名号を指で掘り込んだ、それを「石の名号」という、それは真楽寺に安置してある、と書かれている。
 「石の名号」はその後「帰命石」と呼ばれるようになり、真楽寺に伝来されてきた。ただし現在、この石は埋められ、その上に帰命堂が建てられたので見ることはできない。『新編相模国風土記稿』にその模写が記載されており、また真楽寺の帰命堂には帰命石の複製と拓本が安置されている。その銘文は、

右志者為鏡空行光門弟一向専修念仏者等
帰命尽十方无㝵光如来
南无不可思議光仏
建武元戌十一月十二日同心敬白

という文章である。真楽寺の伝えでは、中央の二つの名号は親鸞が指で書いたもので、左右の銘文は後に覚如が国府津に立ち寄った際に書き込んだものとしている。

神奈川と親鸞 前編33回

神奈川と親鸞 第三十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

国府津の真楽寺⑵ 蓮如作の謡曲『国府津』

蓮如作謡曲『国府津』

蓮如作謡曲『国府津』

 室町時代の蓮如は、東国巡拝の折に国府津にも立ち寄った。そこで感動した内容を御文(おふみ)にしたという。それを後世に謡曲にしたのが『国府津』であるとされている。
 御文は御文章(ごぶんしょう)ともいう。蓮如の手紙形式の教えの文章で、大谷派では「御文」、本願寺派では「御文章」と称している。謡曲とは能楽の台本である。以下に『国府津』を見ていこう。ただし本文は長文なので、部分的に取り上げたい。
 話は蓮如が都から国府津を訪ねるということを軸に展開する。文中、「是」とあるのは蓮如自身のこと、「我祖師」「開山上人」はいずれも親鸞のことである。

(前略)
是は都方より出たる、一向専修の念仏者にて候。偖(さて)も我祖師東関のさかひ
に、二十余回の星霜をかさね、辺鄙(へんぴ)の群萌を済度せしむ。中にも相州足下
の郡江津に七年間御座をしめ給う霊場なれども、未だ参詣申さず候程に、此度思ひ立
ち彼の御遺蹟へと趣き候。(中略)あら嬉しやこれは早や相模国江津にてありげに候。
所の人を相待、御旧蹟を尋ふずるにて候。(中略)扨(さ)ても古(いにし)へ開山上
人、此所に御逗留の折節(おりふし)、来朝せる唐船の中に、高さ七尺横三尺余の霊石
あり。則ち天竺(てんじく)仏生国(ぶっしょうこく)の石なればとて、親鸞自ら御
指を以て、二つの尊号を十字八字にあそばされしを、石の名号と申し奉り、安置せる
所を則ち真楽寺とは申し候。
(後略)

 文中に、「来朝せる唐船」とあることも興味深い。国府津には近年まで漁港があったというが、現在では目立った港は見られない。しかし中世には中国からの貿易船が立ち寄る大きな港があったことが『国府津』から推測されるのである。
 真楽寺には謡曲『国府津』印刷のための版木が保存されている。

神奈川と親鸞 前編32回

神奈川と親鸞 第三十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

国府津の真楽寺⑴ 親鸞布教の旧跡

真楽寺。小田原市国府津 

真楽寺。小田原市国府津

 親鸞が一切経校合のために鎌倉に姿を現わしたのは、嘉禄3年(安貞元、1227)か翌年の安貞2年、55,6歳のころと考えられる。なぜなら、一切経書写の企画者である北条泰時は、このころからこの企画を実行に移した気配があるからである。
 親鸞は60歳のころに帰京したと考えられる。そこで親鸞は関東時代の後半生、正確には関東時代の三分の一の年月に、相模国で布教活動を行なったことになる。ただし、全期間を相模国で過ごしたということではない。
 親鸞は校合の合間に付近での布教も行なったようである。その足跡は後で述べるとして、興味深いのは同時期に小田原市国府津でも布教した気配があることである。国府津は鎌倉の西方約20キロにある。その布教の跡とするのが同所の真楽寺(眞樂寺)である。
 真楽寺は、寺伝では聖徳太子の開創と伝えられている。平安時代以降は天台宗となったが、安貞2年、その時の住職である性順が相模国を布教して回っていた親鸞の門に入って浄土真宗に改めたとされている。まさに親鸞56歳である。
 顕誓(けんせい)という戦国時代の僧が永禄11年(1568)に著わした『反故裏書』にも次のようにある。顕誓は蓮如の孫である。

  (親鸞は)相模国あしさげの郡高津の真楽寺、又鎌倉にも居し給と也。

 「あしさげの郡」とは「足下郡」すなわち「足柄下郡」のことである。「高津(こうづ)」は「国府津」のことで、「江津」とも表記した。
 江戸時代の『大谷遺跡録』「勧山信(真)楽寺記」の項には、

  相州足柄下郡国府津信楽院信楽寺は、高祖聖人御化導の旧跡也。高祖五十六歳、稲田郷にましましながら、安貞二年のころより、よりより此所にかよひ給ふ。

 とある。親鸞の本拠は稲田であって、折に触れて国府津の地にやってきたとある。これが実情を物語っていよう。

神奈川と親鸞 前編31回

神奈川と親鸞 第三十一回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

  鎌倉での一切経校合⑹ 一切経を園城寺に納める

園城寺

園城寺

 北条泰時が企画した一切経書写は長い時間をかけつつ、順調に進んだ。これは政子の菩提を弔うのが目的であるが、以前に述べたように、政治的意味合いが濃かった。政子が御家人たちに与えた大恩を、何年もかけて彼らに意識させ続けること。それが泰時の政権の安定につながるからである。この企画は嘉禄元年(1225)に亡くなった政子の3回忌のころから実行に移されたであろうことも前述した。
 嘉禎3年(1237)7月11日、政子の十三回忌法要が盛大に行なわれた。鎌倉の大慈寺では、完成した一切経の供養が行われ、第4代将軍藤原頼経および多数の御家人が出席した。
 大慈寺は三代将軍源実朝が父頼朝の菩提を弔うため、建保2年(1214)に建立した寺である。ちょうど親鸞が越後から関東に移住してきた年である。
 翌年の暦仁元年(1238)、泰時は将軍頼経のお供で上洛した。そのおりの7月11日、泰時はひそかに近江国(滋賀県)の園城寺(三井寺)の唐院(とういん)に、一切経を持参して参詣した。そのことを記した『吾妻鏡』同時条に、次のようにある。文中、「左京兆(さきょうのすけ)」とあるのが泰時のことである。

  左京兆、密々園城寺に参り給ふ。是は去(い)ぬる年、禅定二位家(ぜんじょう・に
  いけ。政子のこと)一十三年御忌景(遠忌のこと)に当たり、彼の恩徳に報い奉らん
  が為、鎌倉に於いて書功(しょのく)を終る所の一切経五千余巻、今日また件(くだん)
  の御月忌(命日)を迎へ唐院霊場に納め奉らるに依るなり。

 園城寺は政子や義時と親しかった寺院である。唐院とは平安時代以来、主に中国から渡来した宝物を納めておく所であった。現在でも園城寺でもっとも重要な位置にある。泰時は一切経の全巻それぞれの奥に自分の花押を書き、伯母政子の菩提とともに幕府の安定を願って納めたのである。

神奈川と親鸞 前編30回

神奈川と親鸞 第三十回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

  鎌倉での一切経校合⑹ 正安寺➁報恩講と阿弥陀三尊立像

正安寺「本尊阿弥陀如来 御舊跡」の碑。横浜市栄区長沼町

正安寺「本尊阿弥陀如来 御舊跡」の碑。横浜市栄区長沼町

横浜市栄区長沼町の臨済宗円覚寺派・正安寺は、「親鸞鎌倉入り草鞋脱ぎの寺」という伝えを持っている。またこの寺の本尊である阿弥陀三尊立像(脇侍は観音菩薩と勢至菩薩)には、親鸞が一切経校合の合間に彫ったという伝えがある。阿弥陀如来像の袖には「善信」(親鸞の別名)と刻まれ、花押(サイン)が記されている。
 実際のところ、本尊の阿弥陀如来立像は像高九七・五センチ、脇侍の観菩菩薩立像は像高六〇・四センチ、勢至菩薩立像は六一・九センチ、いずれも寄木造りあるいは割矧造りである。割矧造りというのは、一木作りである程度の姿を彫刻した後、前後または左右に割り、内ぐり(体内を削り取る)を施し、また矧ぎ合わせる(くっつける)造り方である。その目的はひび割れの防止にある。木材は年月が経つと乾燥し、ひび割れが起きてしまう。割矧造りはあらかじめそれを防ぐ彫刻方法である。
 正安寺の阿弥陀三尊立像は鎌倉時代後期の一三〇〇年ころの制作と推定され、漆箔(漆を塗った上に金箔を付ける)で、鎌倉地方の彫刻の特色が認められる。その特色とは、彫り方が繊細、顔の表情にも現実感が溢れていることである。鎌倉には、すでにその前期から仏師の集団が住み、そこは鎌倉仏所と呼ばれていた。場所は、現在の鎌倉駅の西側を走る今小路を北上し、巽神社から寿福寺のあたりである。本像はそこの鎌倉仏師たちによって造られたものであろう。優れたできばえである。横浜市指定有形文化財に指定されている。
 江戸時代、本願寺門主が幕府に参向の折りに、必ず正安寺に立ち寄った。明和六年(一七六九)に金子千疋、天保九年(一八三八)には銀一枚を門主が寄進したも残っている。
 また江戸時代以来、四月一日には正安寺では報恩講が行なわれてきた。親鸞との由緒によってである。報恩講は阿弥陀仏のご恩に感謝し、そのご恩に報いる(お返しをする)気持を新たにする、浄土真宗でもっとも重要な法要である。昭和三十年代前半までは、浄土真宗の僧侶が中心になって盛大に行なわれたという。現在でも正安寺の住職が導師となって行なわれている。

神奈川と親鸞 前編29回

神奈川と親鸞 第二十九回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

 鎌倉での一切教校合⑹ 正安寺➀親鸞鎌倉入り草履脱ぎの寺

正安寺本堂。横浜市栄区長沼町

正安寺本堂。横浜市栄区長沼町

 横浜市栄区長沼町・正安寺は、「親鸞鎌倉入り草履脱ぎの寺」と言われている。本連載の前回まで、三回にわたって紹介した戸塚区下倉田町・永勝寺のすぐ近くである。長沼町の地域も下倉田町の地域も、もとは相模国鎌倉郡の内であった。鎌倉時代には、北条氏本家の強力な拠点であった山ノ内荘の中にあった。 
 昭和十四年、両地域を含む鎌倉郡内の一町七箇村が横浜市に入り戸塚区となった。昭和四十四年、こんどは戸塚区から瀬谷区が分区、昭和六十一年には栄区と泉区が分区した。
 正安寺は臨済宗円覚寺派の寺である。意外に思われる方もおられるであろうが、日本で各寺院の宗派が固定されたのは江戸時代初期である。これは幕府が本山末寺の制度を定めたことによる。江戸幕府は、戦国時代に一向一揆や法華一揆など仏教勢力が大軍事力を持っていたことを危険視した。そこで各宗派に本山と末寺定めさせ、幕府が本山を把握し、本山に末寺を監視させる体制を作った。以後、末寺が宗派を変更したり、独立したりするのは困難になった。それ以前はどのように宗派が変わろうと問題ではなかったのである。
 『長沼山正安寺縁起』によると、正安寺はもと天台宗の寺で能満寺と称していた。親鸞が一切経校合をした時、貞永元年(一二三二)八月、この寺に七日間逗留した。その折り、住職だった浄蓮という僧が親鸞の学識に傾倒し、その門弟となった。以来、天台宗を改めて浄土真宗となったという。村人も親鸞の教えを受けて同行(信徒)になったとされており、能満寺は「親鸞鎌倉入り草鞋ぬぎの寺」と呼ばれるようになったという。
 その後、十六世紀の戦国時代、小田原北条氏の弾圧の難を逃れるため、時の住僧海弁は鎌倉の円覚寺に救いを求めた。その後、円覚寺の許可を得て浄土真宗の能満寺から臨済宗の正安寺となって弾圧の憂いを逃れることができたという。
 正安寺は臨済宗でありながら、浄土真宗の最重要法要である報恩講が行なわれてきた、珍しい寺である。

神奈川と親鸞 前編28回

神奈川と親鸞 第二十八回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

鎌倉での一切経校合⑸ 永勝寺➂聖徳太子立像

保命水の碑。横浜市戸塚区下倉田町・永勝寺

保命水の碑。横浜市戸塚区下倉田町・永勝寺

 横浜市戸塚区の永勝寺は、親鸞が北条泰時からの依頼で一切経を校合した時、この寺に滞在したとの伝えを持つ。この寺には、泰時から送られて親鸞の愛用であったという枕がある。各地に親鸞が自分で彫ったという阿弥陀仏像や、親鸞像、あるいは使用していた遺品と伝えられる品々があるが、枕というのは珍しい。
 また境内には保命水と呼ばれる井戸がある。これは親鸞が自ら掘った井戸で、仏前に供える水を準備するためのものであったとされている。永勝寺の境内は南側から西側に展開する丘の麓に位置している。そのためであろう、湧き水は豊富で、周囲の民家の井戸が枯れることがあっても、保命水は枯れることがなかったという。
 さらに、永勝寺の大門の脇にあった松の大木は、親鸞袈裟がけの松と称されていたという。暑い夏に掛けたということであろう。ただし、その大門は現在の境内からは離れた場所にあったようで、大門も松の大木もいまはない。
 そして永勝寺の阿弥陀堂には木像の聖徳太子立像が安置されている。この立像は像高一二六、七センチ、寄木造である。親鸞が自ら彫ったとの伝えがある。実際のところは南部屋朝時代の制作と推定される。右手に笏、左手に香炉を持った、聖徳太子十六歳の孝養太子像である。この年、聖徳太子は父用明天皇の病気治癒を祈願した。父の気分をよくしてもらうため、香炉の中に香水を入れて父に捧げるという孝行息子の姿を表わしたのが本像である。教養太子像には、笏を持たず、両手で香炉を捧げている像も多い。
 本像は少年らしいさわやかな顔つきを、神経を行き届かせて彫ってある。衣文も巧みに彫り込んである。昭和四十一年(一九六六)七月、神奈川県文化財に指定されている。
 親鸞には強い聖徳太子崇敬の念があったという、浄土真宗寺院には聖徳太子画像が掛けられ、また時に聖徳太子立像が安置されている。ただし、聖徳太子に対する宗教的な崇敬の念は、平安時代中期の天台宗から始まったもので、親鸞のころには天台宗あるいは天台宗出身の僧侶であれば必ず崇敬心を抱いていた。その理由、それから親鸞の太子への崇敬心についてはいずれ述べる予定である。

神奈川と親鸞 前編27回

神奈川と親鸞 第二十七回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

 鎌倉での一切経校合⑺ 永勝寺➁山内ノ荘と鎌倉街道

和田義盛坐像。南下浦町・来福寺蔵(非公開)

和田義盛坐像。南下浦町・来福寺蔵(非公開)

 親鸞の一切経校合はこの寺でなされたと伝のある永勝寺の所在地は、現在の行政区でいえば横浜市戸塚区の内である。しかしかつては鎌倉郡山ノ内荘という行政区の中にあった。
 山ノ内荘(山内荘)とは、鶴岡八幡宮の西にある巨福呂坂(小袋坂)の切通しを北に越えた地域の大荘園で、執権である北条氏の本家(得宗家という)が強く頼りにした軍事拠点であった(現在では巨福呂坂の切通しはなく、聖天坂と呼ぶ坂だけが八幡宮側にある)。
 山ノ内荘は、建保元年(一二一三)、北条義時が和田義盛一族を滅ぼした時に手に入れた。鎌倉で事件が起これば、巨福呂坂を経由してすぐ大兵力を投入できるし、危急の場合にはこれまたすぐ逃げ込める。そして山ノ内荘には、北条泰時の常楽寺・時頼の建長寺・時宗の円覚寺・貞時の東慶寺などが次々に建立されていく。永勝寺はこの山ノ内荘にあった。当然、泰時の信頼を得ていたであろう。八幡宮のほぼ真北の方向、約六キロの地点である。
 永勝寺の前の道は、かつて鎌倉街道の「中路(中道)」であった。各地から鎌倉へ向かう道はそれぞれが鎌倉街道と呼ばれたと言われているが、それは実際は江戸時代末期以降のことであった。ただ鎌倉時代、御家人たちが鎌倉へ馳せ参ずるための道路は三本にわたって整備された。それは上道(鎌倉から武蔵西部を経て高崎に至り、信濃・越後へ抜ける)、中道(鎌倉から巨福呂坂を越え、武蔵東部を経て下野・奥州へ抜ける)、下道(鎌倉から朝夷奈の切通しを越え、武蔵の東京湾沿いを北上して常陸へ抜ける)と呼ばれていた。
 親鸞が常陸稲田から鎌倉へ向かう時、中道と下道のどちらかを使ったであろう。ただ中道の方が少し距離が短かい。また下道は東京湾へ注ぐいくつもの大河川の河口付近を横切っている。洪水等で不通になる危険性も大きい。そこで中道を使ったのではなかろうか。
 なお、昭和十四年(一九三九)年四月、旧鎌倉郡内の一町七ヶ村は横浜市と合併して戸塚区となった。現在の横浜市瀬谷区・栄区・泉区は後に戸塚区から分離したものである。横浜市の市域はもと武蔵国に属していたが、戸塚区以下の四区は相模国に属していた。

神奈川と親鸞 前編26回

神奈川と親鸞 第二十六回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴

 鎌倉での一切経校合⑹ 永勝寺と親鸞

永勝寺山門。横浜市戸塚区下倉田町

永勝寺山門。横浜市戸塚区下倉田町

 横浜市戸塚区下倉田町の永勝寺(真宗大谷派)は、もとは鎌倉の甘縄(鎌倉市長谷あたり)にあって天台宗の長延寺と称したという。やがて現在地に移り、親鸞が当地に布教に来た時にそのころの住職が親鸞の教えに帰した。親鸞の一切経校合はこの寺においてなされたとの伝えを持っている寺である(『御相伝略縁起(永勝寺略縁起)』永勝寺蔵)。寺名は戦国時代末期に永勝寺と改めた。
 江戸時代の明和八年(一七七一)刊行になる『大谷遺跡録』「臥竜山永勝寺記」の項にも、次のようにある。
  当寺は往昔、天台宗の精舎なりき。然るに嘉禄二年の比、高祖聖人当国に遍歴し、
  鎌倉に往返して普く群生を化す。 爰に於て寺務これに謁して、専修念仏の法を伝燈す。
  聖人御帰洛の砌まで七入箇年【安貞二より文暦元に至る】 当国国府津に通ひ給ふ内、
  多くは此にあり。武蔵守泰時蔵経書写の時選挙せられしも、爰にありてなり。
「永勝寺はその昔、天台宗の寺院でした。ところが嘉禄二年(一二二六)のころ、親鸞聖人が相模国をめぐられた時、鎌倉にも何度か行って広く人々に念仏を伝えました。そこで当時の永勝寺の住職も聖人にお目にかかり、専修念仏の教えを受けました。聖人は帰京されるまでの七か年【安貞二年(一二二八)から文暦元年(一二三四)】、相模国国府津に通われたうち、多くの年月はこの永勝寺にいました。武蔵守北条泰時が一切経を書写したときに、聖人が校合の役に選ばれたのも、この永勝寺においてでした」。
 安貞二年という年紀と、国府津という地名に注目しておきたい。安貞二年は親鸞五十六歳、幕府では北条政子三回忌法要が終わった翌年である。その意味するところについては本連載第二十二回で述べた。
 同じく江戸時代の宝永七年刊行の『遺徳法輪集』、享和三年(一八〇三)刊行の『二十四輩順拝図会』にもほぼ同じ内容の記事が載せてある。

神奈川と親鸞 前編25回

神奈川と親鸞 第二十五回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴 鎌倉での一切経校合⑸ 親鸞の『教行信証』執筆
法然(左)と親鸞。『拾遺古徳伝絵』より。アメリカ・メトロポリタン美術館蔵

法然(左)と親鸞。『拾遺古徳伝絵』より。アメリカ・メトロポリタン美術館蔵

 元仁元年(一二二四)、五十二歳の親鸞は『教行信証』を執筆した。このことは二つの面で鎌倉での一切経校合という機会を得る後押しをした。  『教行信証』は略称で、正式の書名は『顕浄土真実教行証文類』である。この中に「信」という漢字は入っておらず、覚如以前は『教行証』と略称していた。また現在、真宗大谷派では『御本書』、浄土真宗本願寺派では『御本典』と略称することがある。ちなみに『教行証御書』という書物があるが、これは法華信仰を説いた日蓮の著作である。  『顕浄土真実教行証文類』とは、「極楽浄土が確かに存在することを顕かにする、教えと修行とその結果の証し(極楽往生)を示す文、を集めて作成した書物」という意味である。つまり仏教の世界においては、ある僧が「私はこう考えます」と主張しても説得力はない。「あのお経やこのお経にこのように書かれています。それにもとづけばこうなります」と説いて初めて、説得力を持つのである。このような内容の本を「文類」という。  多くの仏教書からの引用文でまとめた本はたくさん書かれた。しかも、文類では引用文が圧倒的に多い。自分の文章(地の文)はほんのわずかである。  親鸞は師匠法然の念仏説を理論的に充実させるため、諸経典や解説書類を常陸国の稲田神社を始めとする諸寺社に求め、それらを読んで執筆を進め『教行信証』を執筆した。その噂は宇都宮頼綱の耳にも入っていたはずである。頼綱は実信房蓮生と号した法然の門弟であり、しかもその当時は法然の門弟善慧房証空の門に入って教えを受けていた身である。「多数の経典を読み、検討している智者学生親鸞」は頼綱としても泰時に推薦しやすい。  親鸞にしても、『教行信証』が元仁元年の時に完成したとは考えていなかった。七十八歳のころまで加除訂正を加えた。鎌倉で一切経の校合ができるのはまたとない機会である。それこそ泰時の威勢で無数といっていいくらいの経典類を集めてもらえ、それらを読めるからである。親鸞は泰時の要請を喜んで受けたであろう。