法然聖人とその門弟の教学 第16回

法然聖人とその門弟の教学
第16回 「乃下合釈」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、『無量寿経』第十八願に誓われている「乃至十念」と、これを「下至十声」とみられた善導大師の解釈(『観念法門』と『往生礼讃』本願取意の文)との同異を問題としています。すなわち、「乃至十念」を「乃至」と「十念」に、「下至十声」を「下至」と「十声」とに分け、それぞれの対応関係を考えています。
 まず第十八願の「十念」と善導大師の「十声」とを、「念声是一」として、「念」は「声」と同一であると理解し、念仏を称名であるとしています。
 次に第十八願の「乃至」と善導大師の「下至」との関係を問題としています。これまた法然聖人は、「乃至」と「下至」とその意味するところは同一であると説いています。この「乃至」と「下至」とを合わせて解釈することを、乃下合釈といいます。
 そのうえで『無量寿経』に「乃至」と説かれているのは、多より少に向かう言葉であると述べています。この多とは、一生涯にわたる念仏をいい、少とは十声・一声の念仏に至るまでを表しています。つまり、「乃至」という言葉によって、一生涯から十声・一声までの念仏すべてを含んだ表現となるのです。
 一方、善導大師の解釈である「下至」については、「下」は「上」に対する言葉であって、「下」とは十声・一声に至るまでという意味であり、「上」とは一生涯を尽すまでと示しています。したがって、善導大師が「下至」と解釈したのは、「上尽」を省略した形で表しているとことになります。「下至」も「乃至」と同じく、一生涯から十声・一声までの念仏すべてということとなります。
 このように上下相対の意味として「下至」と表現することは、善導大師独自ではなく、法然聖人はその例が多いことを指摘しています。例えば、阿弥陀仏の四十八願には、八つの願(第五願・第六願・第七願・第八願・第九願・第十二願・第十三願・第十四願)に、「下至」という表現を見ることができるからです。第五願・第六願・第七願・第八願・第九願は、それぞれ宿命通(過去のありさまを知る能力)・天眼通(人びとの未来を予知する能力)・天耳通(すべての音や言葉を聞くことができる能力)・他心通(他人の考えていることを知る能力)・神足通(行きたいところに自由に現れることができる能力)の五つのすぐれた能力が誓われています。また、第十二願には光明無量が、第十三願には寿命無量が誓われ、そして第十四願は声聞無量の願といわれています。
 このように善導大師が解釈された「下至」という言葉は、『無量寿経』の意味と相違することはありません。しかし、これまでの諸師は「乃至」の意味を見落としてしまっていて、「十念」に限定して第十八願を「十念往生の願」といわれてきました。これについて、法然聖人は、善導大師だけが「念仏往生の願」といわれたといい、「十念往生の願」ではその意味が十分に表されきれていないと述べています。その理由を、十念だけでは一生涯の念仏も、一声の念仏も含まれないこととなり、「乃至」の意味を表すことができないからだといいます。
 したがって、法然聖人は善導大師が「念仏往生の願」といわれたのは、

善導の総じて念仏往生の願といふは、その意すなはちあまねし。しかる所以は、上一形を取り、下一念を取るゆゑなり。(『選択本願念仏集』)

と、第十八願の意味を十分に表したものであるとし、その理由を、一生涯の念仏も、わずか一声の念仏もすべて含まれるからであると述べています。

法然聖人とその門弟の教学 第15回

法然聖人とその門弟の教学
第15回 「念声是一」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、何をもって阿弥陀仏が念仏以外の行(余行)を本願とされずに、ただ念仏を衆生の往生のための本願であるとされたと説いたのでしょうか。それは『無量寿経』巻上に説示されている第十八願の文に根拠があります。第十八願文とは、漢文で書きますと、以下の三十六文字によって成り立っています。

  設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法

これを書き下しますと、次の通りです。

  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せん。
  もし生ぜずといはば、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
 
 この願文の意味は、「わたしが仏になるとき、生きとし生けるものすべてが心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようならば、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆罪を犯したものや仏の教えを謗るものは除かれます」です。
 
 この第十八願文の中、法然聖人の『選択本願念仏集』では、「唯除五逆誹謗正法」を省略して引用しています。なぜ省略しているのか、その理由については、専修念仏の教えを誤解し、批判する者がいることを想定していたからではないかと考えられますが、思想的な背景としては、第十八願文をどのように解釈するのか、といった問題があります。
 
 法然聖人は経典を解釈する際に、「偏依善導一師(偏に善導一師に依る)」と主張するほど、他のだれよりも善導大師がどのように解釈しているのかに注目しています。第十八願についても同様で、善導大師における第十八願の理解が示された文(『観念法門』と『往生礼讃』)を引用して、その解釈を施しています。法然聖人が特に重視したのは、第十八願に誓われた「乃至十念」を、善導大師が「下至十声」といわれたことです。
 
 法然聖人は「乃至十念」を、「乃至」と「十念」とに分け、まず第十八願に「十念」といい、善導大師がこれを「十声」と解釈したことについて問題としています。この「念」と「声」とは同じであるのか、違うのか、という問いを設け、この問いに対して、法然聖人は「念」と「声」とは同一である(念声是一)と位置づけました。つまり、善導大師が「念」を「声」と解釈されたのは、第十八願に誓われた念仏を、声に出して称える念仏、すなわち称名念仏であると明確に示したということなのです。
 
 また、念と声が同一であることを、『観無量寿経』の下品下生の文と『大集経』の「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」という文、さらにこの文を解釈した懐感禅師の『群疑論』を引用して、第十八願に誓われた「十念」が十回の称名念仏であることを強調しています。

法然聖人とその門弟の教学 第14回

法然聖人とその門弟の教学
第14回 「平等の慈悲」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は「だれもが」実践できる易しい行こそ勝れていると説いています。それは決してごく限られた人ではなく、だれもが共通して実践できるという点に重きを置いています。つまり、念仏は易行であるからこそ、すべての人に開かれた行であり、諸行は難行であるから、すべての人に通じるとは言えません。このような理由から、阿弥陀仏は生きとし生けるものすべてを平等に往生させるために、難行を捨てて、易行を選び取って、本願とされたのです。
 
 そこで法然聖人は、本願の念仏がすべての人に開かれているという意味を具体的に述べています。例えば仏像を造り、塔寺を建てることを本願に誓われているとするならば、経済的に貧しく生活が困窮している者は往生できないということになります。ところが、富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 次に智慧才能のあることを本願に誓われているとするならば、愚かで智慧の劣った者は往生できないということになります。ところが、智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 さらに、仏の教えを多く見聞して学問があることを本願に誓われているとするならば、仏の教えをあまり見聞したことのない者は往生できないということになります。ところが、多く学んだ者は少なく、見聞が少ない者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 そして、戒律を堅くたもつことを本願に誓われているとするならば、破戒や無戒の者は往生できないということになります。ところが、戒をたもつ者は少なく、戒を破る者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 このように阿弥陀仏の本願には、だれにでも実践できる易行が誓われているのですが、その根源には「平等の慈悲」に基づくことが示されています。

  しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、
  造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。
  (『選択本願念仏集』)

 この文は、「阿弥陀如来は、法蔵菩薩であった昔に、平等の慈悲の心を起こされて、生きとし生けるものすべてを救うために、仏像を造り、塔寺を建てることなどの諸行を往生の本願とはされずに、ただ称名念仏の一行を本願とされた」という意味です。つまり、阿弥陀仏の本願に念仏一行のみが誓われているのは、すべてに向けられた誓いであるからであり、平等の慈悲によって起こされた願いであるからです。
 
 さらに法然聖人は、法照禅師の『五会法事讃』を引用して、「阿弥陀仏の本願とは破戒の者であろうとも罪深い者であろうともすべてを救いの対象としているのであり、回心して多く念仏すれば、瓦や小石は黄金に変わってしまう」と説いています。

法然聖人とその門弟の教学 第13回

法然聖人とその門弟の教学
第13回 「難易の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人における念仏の特徴は、「勝易具足」にあります。『選択本願念仏集』には、勝劣の義につづいて「難易の義」を示しています。

  難易の義とは、念仏は修しやすく、諸行は修しがたし。(『選択本願念仏集』)

 難易の義とは、念仏と諸行とを比較して、念仏は修め易く、諸行は修め難いと規定することをいいます。このことを証明する文として、法然聖人は善導大師の『往生礼讃』と源信和尚の『往生要集』を引用しています。
 まず善導大師の『往生礼讃』では、われわれにはどのような念仏を勧められているのかを問題としています。つまり、観念ではなく、どうして称名念仏であるのか、という問いを設定しています。
 観念とは、心を静かにして仏のすがたや功徳を観察し、思念することをいいます。しかし、観念の対象は細やかで、心を集中させなければならないのですが、われわれの心は粗雑で、うわついており、常に動揺していて、とても観念を成就することは難しいことです。そのため釈尊は、このようなわれわれを哀れんで、ただ専ら名号を称えることを勧められたのであると、この問いに対し、答えています。したがって、称名念仏は修め易いので、これを続けて(相続して)、往生することができることを述べています。
 この『往生礼讃』の文を引用することによって、法然聖人はわれわれが実践可能であり、相続していくことのできる易行とは何かに焦点を当てつつ、われわれの心のありようを明らかにされています。
 次に源信和尚の『往生要集』では、阿弥陀仏が本願に称名念仏を選択された意味を述べています。つまり、あらゆる善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どうして、ただ念仏の一門のみを勧められているのか、という問いを設定し、念仏を勧められる理由を、次のように答えています。

  ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず
  (『選択本願念仏集』、『往生要集』引文)

 念仏を修めることは、男性でも女性でも、身分の高い人であっても、そうではない人であっても、歩くこと、とどまること、坐ること、臥すことのどのような生活をしていても、時間や場所、さまざまな条件を論じる必要はないから、難しくないといわれています。
 このように『往生要集』から、念仏とは「いつでも、どこでも、だれでも」実践することができる易行であると説かれているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第12回

法然聖人とその門弟の教学
第12回 「勝劣の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 

 法然聖人の教えは「念仏往生」です。この念仏には勝易の二徳があることを明らかにされています。勝易二徳とは、念仏は勝れた行であり、しかも易しい行であるという二つの徳がそなわっていることをいいます。これは法然聖人が、仏のみ心を試みに思い測ってみたときに、念仏と念仏以外の行(余行、諸行)とを比較することによって導き出した解釈であり、それぞれ「勝劣の義」「難易の義」と表しています。この中、初めの勝劣の義を次のように述べています。

 

  初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。
  所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。(『選択本願念仏集』)

 

 この文は、「初めに勝劣の義とは、念仏は勝れ、ほかの行は劣っています。なぜ念仏の一行が最も勝れた行であるのかというと、南無阿弥陀仏の名号にはあらゆる徳がおさまっているからです」という意味です。法然聖人は念仏が勝れている根拠を、「名号はこれ万徳の帰するところなり」と結論づけています。

 このようにあらゆる功徳が阿弥陀仏の名号におさまっていることについて、法然聖人は阿弥陀仏の内にそなわっている功徳と外側に現れる功徳があることを説明しています。つまり、阿弥陀仏の内には、四智(大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四種の智慧)・三身(法身、報身、応身の三種の仏身)・十力(処非処智力、業異熟智力、静慮解脱等持等至智力、根上下智力、種種勝解智力、種種界智力、遍趣行智力、宿住随念智力、死生智力、漏尽智力の十種の力)・四無畏(正等覚無所畏、漏永尽無所畏、説障道無所畏、説出道無所畏の四種の表現能力)などのさとりのすべての功徳が得られているといい、外側には相好(すぐれた容貌、形相)・光明・説法・利生(衆生を利益すること)などの功徳が現れているといいます。

 このようにさとりの功徳のすべてが阿弥陀仏の名号の中におさまっているので、名号の功徳を最も勝れているといい、余行はそうではなく、それぞれ一部分の功徳だけであるから、劣っているというのです。

 これについては、「屋舎のたとえ」によって、念仏と余行との関係を述べています。つまり、家(屋舎)は、棟・梁・椽・柱など家を構成するすべての材料を含んで完成しているけれども、棟・梁などは家の一部分を示したものです。これは名号を家に、余行を家の一部分にたとえたものです。この屋舎のたとえによって、名号はすべての功徳をおさめ完成しているけれども、余行は名号の一部分の功徳にすぎないということを明らかにしているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第11回

法然聖人とその門弟の教学
第11回 「聖意測りがたし」「仏意測りがたし」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は『無量寿経』によって、法蔵菩薩が建立した本願とは、粗悪なものを選捨して、善妙なものを選取したものであると述べています。では、どのような理由によって第十八願には、一切の諸行(ありとあらゆる行)を選捨して、ただひとえに念仏の一行のみを選取して、衆生の往生を誓う本願とされたのでしょうか。法然聖人はこのような問いを設けて、次のように答えています。

  聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。しかりといへどもいま試みに二の義を
  もつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。(『選択本願念仏集』)

 この文は、「仏のみ心を思い測ることは難しい。容易に解釈することはできないけれども、いま試みに二つの義によってこれを解釈してみると、勝劣の義と難易の義とがある」という意味です。法然聖人は、第十八願に誓われている念仏とそれ以外の諸行とを比較して、念仏には勝と易の二つの義があり、諸行には劣と難の義があることを示しています。ここでは念仏のみを取り上げて、念仏には勝と易の義があると言っているのではありません。あくまでも諸行と比べて、念仏とは勝れた行であり、易しい行であると指摘しています。
 また、「聖意測りがたし。しかりといへども」という表現は、親鸞聖人においても用いられています。

  仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、
  無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽
  にして真実の心なし。(『教行信証』「信巻」)

 これは『教行信証』「信巻」の三一問答とよばれている中に出てくる文です。三一問答とは、第十八願文の「至心・信楽・欲生」の三心と、天親菩薩が『浄土論』で表した「一心」との関係を明らかにするために設けられた問答をいいます。
 親鸞聖人は、法然聖人と同じく「仏意測りがたし、しかりといへども」と、如来のみ心は思い測ることは難しいとしながら、「ひそかにこの心を推するに」と、自ら如来の心をたずねています。このような態度は何を意味しているのでしょうか。法然聖人も親鸞聖人もその姿勢を謙虚であるという言葉で言い表すのみではすべてを語ったということにはならないでしょう。なぜならば「仏意測りがたし」とは、自らの器量やはからいによって仏意を掌握できるような如来の救済法ではないことを、仏意と向き合ってこそはじめて仏意そのものが知らされたからです。
 これによって、親鸞聖人は自身も含め、一切衆生には「はかり知れない昔から今日今時に至るまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、うそいつわり、へつらうばかりで真実の心がない」ことを明らかにしているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第10回

法然聖人とその門弟の教学
第10回 「選択の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 『無量寿経』には、法蔵菩薩があらゆるものを救うための願を建てるにあたって、世自在王仏による説法が示されています。それは法蔵菩薩のために、「二百一十億のさまざまな仏の国々に住んでいる人・天の善悪と、国土の勝劣を説いて、法蔵菩薩の願いのとおりに、すべてをお見せになられた」ことでした。この世自在王仏の説法を聴聞した法蔵菩薩は、それら清らかな国土のありさまを詳しくじっくり見て、この上ないすぐれた願を発します。この願は、きわめて静かで、とらわれのない心によってなされたものであり、また五劫という長い間、思いをめぐらして、清らかな行を「摂取」したことによってはじめて成り立つものでした。

 法然聖人は『選択本願念仏集』に、この『無量寿経』の文を引用していますが、同時に『無量寿経』の異訳である『大阿弥陀経』のこの部分の文も引いています。

 ちなみに親鸞聖人は、この『無量寿経』の文に基づいて、『教行信証』「行巻」末の「正信念仏偈」に次のように述べています。

  法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
  建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方(「正信念仏偈」)

 ところで現存する<無量寿経>の漢訳は、全部で五本ありますが、そのうち『大阿弥陀経』は、『平等覚経』とともに翻訳年代が古い初期無量寿経に区分され、阿弥陀仏の本願が四十八願ではなく、二十四願の経典であることが特徴に挙げられます。

 法然聖人は『無量寿経』で使用されている「摂取」という言葉が、この『大阿弥陀経』では「選択」になっていることを指摘しています。そしてこの「選択」とは、

  このなか、「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。(『選択本願念仏集』)

と、定義づけを行っています。つまり、選択とは「選び取る」とともに「選び捨てる」という意味を兼ね備えた言葉であるのです。その上で、法然聖人は「選択」と「摂取」という言葉は異なるけれども、その意味は同じであるとし、選択とは、不清浄の行を捨てて(選捨)、清浄の行を取る(選取)ことであると述べています。取捨の基準は、あらゆるものが救われる行であるかどうか、にあります。

 これについて法然聖人は、法蔵菩薩のときに誓った阿弥陀仏の願とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜や孝養父母などの諸行を選捨して、専ら仏の名を称えるという「専称仏号」を選取したとして、これを選択であると説いています。

 したがって、法然聖人が主張する「選択」とは、私の選択ではなく、阿弥陀仏による選取・選捨です。それは阿弥陀仏が念仏以外の諸行を何も必要とはしていないということであり、往生のために必要となるのは、念仏のみ(ただ念仏)であるということだったのです。
 このように法然聖人は、選取と選捨の両方の意味が込められた言葉として、「選択」を使用しています。「選択」という言葉を用いながら、阿弥陀仏の本願の救いを明らかにされているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第9回

法然聖人とその門弟の教学
第9回 「総願と別願」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 浄土教の重要な用語に「本願」があります。本願とは、以前からの願いという意味で、菩薩が因位の時(さとりを開くために願を建てて修行している間)におこした衆生救済の誓いをいいます。また、衆生救済のためのまさしく根本となる願という意味でもあります。

 法然聖人はこの本願を考えるとき、総願と別願の二種があることをいいます。総願とは、すべての仏が菩薩の時におこす誓いのことで、「四弘誓願」がこれに当たります。四弘誓願とは、「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」という四つの広大な誓いのことです。源信和尚の『往生要集』にも述べられていますが、若干の異同があります。

 武蔵野大学では、週に一度大学礼拝を勤めていますが、そのときに、この四弘誓願の訳を教職員と学生が唱和するようにしています。その訳とは、「いきとし生けるものが幸せになるために(度) わたくしの「ひとりよがり」のこころをきよめ(断) 正しい道理をどこまでもきわめ(学) 生きがいのある楽しい平和の世界をうち立てたい(成)」(山田龍城訳)というものです。

 一方、別願とは、それぞれの仏・菩薩の独自の誓願のことをいい、これによってそれぞれの仏の性格が異なってきます。法然聖人は別願の代表例として、釈迦の五百の大願や薬師の十二の上願とともに、阿弥陀仏の四十八願を挙げています。この四十八願については、

  おほよそ四十八願みな本願なりといへども、殊に念仏をもつて往生の規となす。
                           (『選択本願念仏集』)

と、四十八願はすべて本願というけれども、念仏往生を規範とすることを述べています。念仏往生が誓われた願は、四十八願の中の第十八番目の願(第十八願)であり、これを根本の願として、「本願中の王」と名づけています。それと同時に、法然聖人は第十八願には念仏以外の行(余行)が誓われていないことを強調しています。

 ところで法然聖人は、阿弥陀仏がいつ、どの仏のもとで、本願をおこされたのかという問いを設け、『無量寿経』によって、その答えを導き出しています。ここで指摘しておかなければならないことは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、決して一人で発願し、修行したわけではなかったということです。

 『無量寿経』では、釈尊が阿難に対して、永遠なる過去において、錠光如来が世に出現して、数限りない人びとを教え導き、そのすべてのものにさとりを得させて、世を去られたことから説き始めています。錠光如来とは、釈尊の前生において、釈尊に対し未来に成仏すると予言した仏です。つまり、錠光如来から説き始めることで、釈尊の説法の根源を意味づけた表現となっていると考えられます。

 つづいて、錠光如来をはじめ五十三仏に次いで出現したのが世自在王仏であることが説き明かされます。この世自在王仏の説法を聞いて、心に悦予を懐き、この上ないさとりを求める心をおこしたある国王が、国も王位も捨てて出家修行者の身となり、名のった名前が「法蔵」でありました。

 ここから法蔵菩薩が発願したのは、世自在王仏の説法を聞くことによってなされたものであることがわかります。法蔵菩薩にとって、世自在王仏の存在なくしてはその発願も修行も成立しません。説法者である世自在王仏と聞法者としての法蔵菩薩の関係性が注目された記述となっているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第8回

法然聖人とその門弟の教学
第8回 「百即百生と千中無一」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人が雑行を捨てて、正行を専ら修めるべきことを主張されたのは善導大師の文に基づいています。その文とは、善導大師の『観無量寿経』の見方が示されている『観経疏』と、浄土に往生したいと願う者の実践が説き述べられた『往生礼讃』の文です。

 『往生礼讃』には、生涯にわたって念仏を称える者は、十人いれば十人すべてが浄土に往生し、百人いれば百人すべてが浄土に往生することを説いています。なぜならば、念仏を称える者は、外からのさまざまな妨げがなく、正しい思いに至るからであると述べています。また、阿弥陀仏がすべてを救おうと誓われた本願のこころと一致しており、釈尊の教えそのものであって、仏の言葉にしたがっているからです。

 しかし、正行を捨てて雑行を修める者は、百人の中で一人か二人、あるいは千人の中で三人か五人、ごくまれにしか浄土に往生する者はいないと言われています。その理由を、善導大師は十三項目にわたって示しています。その十三項目とは、雑行は、

(1)外からのさまざまな妨げに乱されて、正しい心を失うからである。

(2)阿弥陀仏の本願に相応しないからである。

(3)釈尊の教えと相違するからである。

(4)仏の言葉にしたがっていないからである。

(5)浄土に想いをかけ続けられないからである。

(6)阿弥陀仏を思う心が途絶えるからである。

(7)浄土に往生したいと願う心が真実ではないからである。

(8)欲やいかり、誤った見方などから煩悩がおこってきて、それが消えることがないからである。

(9)自らを顧みることがなく、悔い改めることがないからである。

(10)阿弥陀仏の恩に報謝する思いがないからである。

(11)自ら思い高ぶり、他人をあなどって、名誉や利益を優先するからである。

(12)自己にとらわれて、同じく往生を願う者に対して親しみを持たず、近づかないからである。

(13)好んで阿弥陀仏とは関係のない方向へ向かい、自分だけではなく他人の往生も妨げるからである。

 これほどまで善導大師が雑行を捨てるべき理由を挙げている文を見た法然聖人は、「どうして百人は百人すべて漏れることがなく、浄土に往生することができる(百即百生)間違いのない専修正行(念仏)を捨てて、千人の中に一人も往生する者がいない(千中無一)雑修雑行に堅く執われてよいのであろうか」と述べ、私たちにこのことをよくよく考えるべきであると諭されています。このように法然聖人は「念仏往生」という確かな道を示し、われわれを導いてくださっているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第7回

法然聖人とその門弟の教学
第7回 「善導大師の六字釈」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 「南無阿弥陀仏」の六字について解釈することを六字釈といいます。中国浄土教の大成者である善導大師は、南無阿弥陀仏について「南無」と「阿弥陀仏」とに分け、「南無」とは「帰命」「発願回向」であり、「阿弥陀仏」とは「即是其行」であると解釈されました。
 南無阿弥陀仏の南無は梵語の音写語で、中国語では帰命と訳されます。帰命とは、心から信じ敬うという意味です。また、発願回向とは、浄土往生の願いを発して回向することをいいます。そして、善導大師が阿弥陀仏とは、「すなはちこれその行なり(即是其行)」と解釈されたのは、阿弥陀仏そのものの行を表したものだからです。つまり、阿弥陀仏は単なる仏名だけではなく、衆生を浄土に往生させるはたらきを意味しているのです。
 このように善導大師は、南無阿弥陀仏の六字には、衆生が浄土に往生するために必要な願と行とが具わっていることを主張されました。衆生が往生のために必要な願と行とが具わっていることを、「願行具足」といいます。
 善導大師が願行具足の念仏を主張された背景には、摂論宗の学者による別時意(別時意趣)の批判がありました。別時意とは、無着菩薩の『摂大乗論』に説かれた仏の方便説の一つで、長い間修行を積み重ねていかなければ往生を得ることができないのに、わずかな善根によって、すぐに往生ができるかのように説くことをいいます。つまり、遠い未来の別時に得る結果を、即時に得られるかのように説くことから別時意というのです。
 この『摂大乗論』の別時意説を、摂論宗の学者は『観無量寿経』下品下生に説かれている念仏往生の教えに適用させ、この念仏を別時意であるとし、すぐに往生できるような行ではないとしました。したがって、念仏には往生しようとする願はあるけれども、すぐに往生できる行ではない(唯願無行)と主張したのです。これに対して反論した教説が、善導大師の六字釈でした。
 この善導大師の六字釈に注目し、引用されたのが法然聖人です。法然聖人が引用された意図とは、願行具足を言うのではなく、六字釈を通して、念仏とは「不回向」の行であることを論証しようとすることにありました。雑行は特別に回向しなければ往生の行にはならないけれども、念仏は阿弥陀仏の本願の行(阿弥陀仏そのものの行)であるから、衆生が回向する必要はなく、自然に往生の業となることを述べるために、六字釈を引用されたのです。なぜならば、「南無阿弥陀仏」の六字の名号そのものに、回向のはたらきがあるからです。これを衆生の側から見て、「不回向」というのです。