法然聖人とその門弟の教学 第25回

法然聖人とその門弟の教学
第25回 「善導によらば」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、念仏以外のさまざまな行である諸行を棄てて、ただ念仏一行であるとする理由を、廃立・助正・傍正のそれぞれ三つの解釈が可能であると述べています。それぞれは別の解釈ですが、これら三義はいずれも共通して「一向念仏のため」であると主張しています。
 すなわち、初めの義の「廃立のために説く」とは、諸行は廃するために説かれ、念仏は立てるために説かれているという意味です。次の義の「助正のために説く」とは、正しく衆生の往生が決定する行業である念仏を助けるために諸行が説かれているという意味です。そして最後の義である「傍正のために説く」とは、念仏と諸行の二門を説くけれども、念仏を正とし、諸行を傍とするという意味です。
 このようなことから、廃立・助正・傍正の三義によって、『無量寿経』に説示されている上輩・中輩・下輩の三輩はいずれも共通して念仏を説いているということができるのです。これら三義の優劣については、法然聖人は知ることは難しいとし、「請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり」と、「どうか学ぶ人たちは、おのおのの心にしたがって取捨しなさい」と述べています。
ところが、このように述べつつも「善導によらば」という領解の基準を示しています。

いまもし善導によらば、初めをもつて正となすのみ。(『選択本願念仏集』三輩章)

 つまり、「いまもし善導大師に依ったならば、初めの廃立の義をもって正しい意味とする」と理解しているのです。このように『無量寿経』や『観無量寿経』などの経典を領解するには、さまざまに解釈することが可能ではありますが、法然聖人は何よりも善導大師の領解を最も重視し、善導大師に基づいてその理解としています。
 善導大師に基づいた理解とは、『選択本願念仏集』全体を通して貫かれた思想です。例えば、本願章では阿弥陀仏の本願(第十八願)を解釈するにあたって、善導大師の『観念法門』と『往生礼讃』に説かれている本願の文を引用し、念仏往生の願の意味を明確にしています。
また、特留章では、未来の世にさまざまな経典に説かれたさとりへの道が滅んだとしても、特に『無量寿経』は滅ぶことなく留められることを取り上げ、その理由を次のように述べています。
  もし善導和尚の意によらば、この経のなかにすでに弥陀如来の念仏往生の本願を説けり。(『選択本願念仏集』特留章)
すなわち、『無量寿経』には阿弥陀仏の「念仏往生の本願」(第十八願)が誓われているからであるとしています。このような見方は「善導和尚の意によらば」と、善導大師の理解に依ることを示しています。
 そして後述の文には、「偏依善導一師(偏に善導一師に依る)」と断言し、真の相承の師を「善導一師」と仰がれています。

法然聖人とその門弟の教学 第24回

法然聖人とその門弟の教学
第24回 「傍正の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は念仏と諸行との関係を、廃立・助正・傍正の三義によって表しています。このうち第三の傍正の義では、念仏も諸行もそれぞれ上・中・下の三品の衆生に応じて説かれていることを示すために、諸行を説いていると解釈しています。上・中・下の三品とは、それぞれ『無量寿経』の上輩・中輩・下輩の三輩のことをいいます。
 まず念仏について三品を説いているとは、『無量寿経』の三輩はいずれも共通して「一向専念無量寿仏」(ただひたすらに阿弥陀仏を念じなさい)が説示されていることを意味しています。
 これについて法然聖人は『選択本願念仏集』三輩章に、源信和尚の『往生要集』大文第八(第八章)「念仏証拠門」から次の文を引用しています。

『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな「一向専念無量寿仏」といふ

 源信和尚の『往生要集』には、念仏が往生の因となる証拠として、十種の文を挙げていますが、法然聖人がここで引用しているのは、その十文のうちの第二に示されている文です。ここでいう『双巻経』とは、『無量寿経』のことです。また、双巻とは上下二巻を意味しています。この文は、「三輩往生それぞれの人の行業を説く中には、その行に浅い深いはあるけれどもすべてに共通して、一向専念無量寿仏が説示されています」という意味です。
 『往生要集』念仏証拠の十文には、この他に『無量寿経』第十八願文や『観無量寿経』下品下生の文の取意として示されている「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(極重悪人には、他に救われる道はない。ただ仏を念じて名を称えることによって、極楽に往生することができる)という文などを挙げています。
さらに法然聖人は、この源信和尚の『往生要集』念仏証拠の文は、懐感禅師の『群疑論』にも同じように説かれていると述べています。『往生要集』は、『群疑論』の教説を承けたものと考えられます。
 次に諸行についても三品を説いているとは、この上輩・中輩・下輩の三輩の中に共通してみな菩提心などの諸行が説示されていることをいいます。これは諸行について、三品に分類しているということです。これについても法然聖人は、『往生要集』大文第九(第九章)の「諸行往生門」に、「『双巻経』の三輩またこれを出でず」と述べられている文を引いています。この文は、「『無量寿経』の三輩もまたこれと同じである」という意味です。
 『往生要集』往生諸行では、往生浄土のためのさまざまな行業が明かされています。法然聖人が引用した文は、『観無量寿経』の九品往生それぞれの行業を示した後に表されています。九品とは、阿弥陀仏の浄土へ往生を願う衆生を、修めるべき行によって九種類に分類した階位をいいます。法然聖人の『選択本願念仏集』でもこの後、『無量寿経』の三輩と『観無量寿経』の九品との関係性を問題としています。

法然聖人とその門弟の教学 第23回

法然聖人とその門弟の教学
第23回 「『往生要集』の助念方法」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人の『選択本願念仏集』には、念仏と諸行との関係について、念仏を助けるために諸行を説くという「助正」の義を示しています。助正には、さらに二つの意味があるとして、同類の助業と異類の助業とに分類しています。同類の助業とは、五正行の中の称名以外の助業(読誦・観察・礼拝・讃歎供養)をいい、異類の助業とは、それ以外の助業をいいます。それ以外の助業とは、法然聖人は具体的に『無量寿経』三輩段に説かれている諸行によって明らかにしています。
法然聖人は、三輩段の中輩には「寺院を建て、仏像を造り、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をする」などの諸行が説かれていますが、これらの諸行を異類の助業であると述べています。そしてこれにつづいて、

  その旨『往生要集』に見えたり。いはく助念方法のなかの方処供具等これなり。
(『選択本願念仏集』三輩章)

と解説を施しています。
 『往生要集』とは、源信和尚が仏教のさまざまな経論釈の中から往生極楽に関する要文を集めて、阿弥陀仏の極楽浄土に往生すべきことを勧めた書物です。全体は十章で構成されており、「助念方法」はその第五章(大文第五)に説かれています。助念方法とは、念仏を助ける方法という意味です。
源信和尚はこの助念方法を、次のように規定しています。

助念方法といふは、一目の羅は鳥を得ることあたはず、万術をもつて観念を助けて、往生の大事を成ず。(『往生要集』巻中大文第五)

 つまり、助念方法とは、網目が一つしかない網では、鳥を捕らえることができないように、あらゆる方法によって、仏を心に思い浮かべ観る行(観念)を助けて、極楽往生の一大事を成就させるということです。この助念方法には、『往生要集』に七つの方法が示されています。七つの方法とは、方処供具、修行相貌、対治懈怠、止悪修善、懺悔衆罪、対治魔事、総結行要をいいます。『選択本願念仏集』では、「方処供具等これなり」とまとめられています。
 方処供具とは、念仏を修する際の場所や供物、道具をいいます。その内容は『往生要集』に次のように示されています。
まず心も身体も共に浄め、閑静な場所を選んで、できる限りの香や花などの供物を用意することです。花や香などを欠くようなことがあるならば、ただひたすら仏の功徳とその不思議な力を念じることです。仏像に礼拝する場合は、灯明を供えなければなりません。はるか西方極楽浄土を観念するならば、闇室を用いてもよいです。
 花や香を供える時には、『観仏三昧経』にある供養の文を唱えましょう。この文を唱えることによって得られる福徳は無量無辺であり、煩悩はおのずから減少して、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度)の行はおのずから成就するのです。
 念珠を用いる場合は、極楽浄土の往生を願うならば、むくろじの実の念珠を用い、多くの功徳を望むならば、菩提樹の実あるいは水晶、または蓮の実などの念珠を用いるのがよいです。
 このように源信和尚は、念仏を助ける方法としてその実践する場所や供物、道具を具体的に述べ、念仏を修しやすい環境を整えることを勧めているのです。この念仏とは、『往生要集』では観念を指していますが、法然聖人は称名として理解されています。

法然聖人とその門弟の教学 第22回

法然聖人とその門弟の教学
第22回 「助正の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、『無量寿経』に念仏以外の行(余行・諸行)が説かれている理由をどのように解釈すべきか、という問題を設定し、これには三通りの解釈が可能であることを示されています。
三義のうち初めの「廃立」につづいて示される解釈は、念仏を助けるために諸行を説くという「助正」です。この解釈には、さらに二つの意味があると考えられています。
  一には同類の善根をもつて念仏を助成す。
  二には異類の善根をもつて念仏を助成す。(『選択本願念仏集』三輩章)
 この「同類の善根」とは、正定業である称名と同じ種類の善根をいいます。正定業とは、正しく衆生の往生が決定する行業、業因という意味です。これは善導大師の『観経疏』「散善義」の説に基づくものです。
 善導大師は、阿弥陀仏の浄土へ往生する行として、五種の正行(五正行)を挙げています。五正行とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養をいいます。そして第四の称名を正定業と規定し、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業と定められています。助業とは、称名の助となり伴となる行業という意味で、念仏を称えやすいよう助けとなる行となったり、読誦・観察・礼拝・讃歎供養を実践することによって、自然に念仏も称えられるようになったりすることから言われているものです。
 このような助業を、阿弥陀仏と関わりの深い行として、正定業と同じ種類の行であることから、「同類の善根」「同類の助成」といわれています。
これに対し、「異類の善根」とは前述した助業以外のさまざまな善根のことで、念仏を称えやすいよう助けとなる行をいいます。法然聖人は、この異類の助成とはどのような行を指して言うのかを、『無量寿経』三輩段に説かれている念仏以外の行によって明らかにしています。
 三輩段の上輩に説かれている「一向に専ら無量寿仏を念ず」ことは正行に当たりますが、「出家して欲を棄て沙門となって菩提心を発す」ことは「異類の善根」に相当します。法然聖人は、この出家や発心とは初めて行う行為であると規定される一方、念仏とは長く退転しないで修する行であるから、さまたげるはずはないと述べています。
 また、中輩の「寺院を建て、仏像を造り、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をする」などの諸行や下輩の「発心」などの行も「異類の善根」であるとされています。さらに、中輩の諸行とは、源信和尚の『往生要集』「助念方法」にも説かれていると述べられています。
 そして下輩には、菩提心を発す発心と念仏が説かれているとされています。
このように『無量寿経』三輩段に説かれている念仏以外の行を、「異類の善根」「異類の助成」といわれています。
 なお、法然聖人は「衣食住の三は念仏の助業なり。これすなはち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり」(『禅勝房伝説の詞』)とも説かれました。

法然聖人とその門弟の教学 第21回

法然聖人とその門弟の教学
第21回 「廃立の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は『選択本願念仏集』に、『無量寿経』の三輩段には念仏以外の行(余行・諸行)が説かれているのに、なぜ「ただ念仏往生」を説くのかを問題としています。この問いの答えとして、まず一切衆生の素質や能力とは、それぞれ異なるものであるから、釈尊は上・中・下の三輩に分け、それぞれの素質や能力にしたがって、無量寿仏(阿弥陀仏)の名を専ら称えるよう勧められたと明かしています。
 しかし、これでは十分に答えたとは言えないとして、法然聖人はさらに「なぜ余行を棄てて、ただ念仏というのか」という問いを設けます。この設問の答えには、次の三つの解釈があることを提示しています。

 (1)諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。
 (2)念仏を助成せんがためにしかも諸行を説く。
 (3)念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を立てんがためにしかも諸行を説く。

 これら三義は、法然聖人の言葉からそれぞれ(1)廃立、(2)助正、(3)傍正と呼ばれています。
 法然聖人は、この三義のうちの初めの「廃立の義」を、善導大師の『観経疏』「散善義」の文に基づいて説明しています。廃立の「廃」とは念仏以外の諸行を、「立」とは念仏をそれぞれ配当させたもので、諸行を廃し、念仏を立てるために廃すべき行を明確にすることを目的として、諸行を説いたという解釈です。
 法然聖人は、善導大師が『観経疏』「散善義」で「『観無量寿経』には、はじめから定善・散善の行法の利益を説いているけれども、阿弥陀仏の本願の救いから考えると、釈尊の意とは、衆生に一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあります」と述べていることに注目し、これに基づいて「廃立の義」を解釈しています。
 つまり、法然聖人は、「三輩のうち上輩には菩提心などの余行が説かれているけれども、阿弥陀仏の本願の救いから考えると、釈尊の意とは、ただ衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあります。だから、阿弥陀仏の本願には余行は誓われていないのです」と明示しています。したがって、法然聖人は三輩すべての人が阿弥陀仏の本願をよりどころとするのですから、三輩いずれも「一向に専ら無量寿仏を念ず(一向専念無量寿仏)」と説かれていると理解しているのです。
 さらに、法然聖人は「一向専念無量寿仏」の「一向」の語に注目して、一つのたとえを提示しています。それはインドには「一向大乗寺」(ただ大乗仏教を学ぶ寺)と「一向小乗寺」(ただ小乗仏教を学ぶ寺)、それに「大小兼行寺」(大乗と小乗とを兼ねて学ぶ寺)の三種類の寺があるけれども、大乗と小乗を兼行する寺には「一向」の言葉がないというものです。このたとえを通して、「一向」とは「他に心をかけず、ひたすらに」という意味であることを示し、『無量寿経』に説かれている「一向専念」とは、念仏以外の諸行を廃してただ念仏を用いるから「一向」といわれていると解釈しています。もし「ただ念仏」でないならば、「一向」と言うことはないという論理です。このように「一向」が持つ言葉の意味から「廃立の義」を導き出しているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第20回

法然聖人とその門弟の教学
第20回 「三輩念仏往生」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 『無量寿経』巻下は、第十一願・第十七願・第十八願成就文が説かれた後、三輩往生の段がつづいています。三輩とは、浄土往生を願う修行者を、三種類に区別したものをいいます。三種類とは、上輩・中輩・下輩と名づけられて、それぞれ修行の内容によって分けられています。
 
 上輩とは、家を捨て、欲を離れて修行者(沙門)となり、さとりを求める心(菩提心)をおこして、ただひたすらに(一向に専ら)阿弥陀仏(無量寿仏)を念じ、さまざまな功徳を積んで、阿弥陀仏の浄土に生れたいと願う者をいいます。これらの衆生が命を終えようとするとき、阿弥陀仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださいます。そして阿弥陀仏にしたがって浄土に往生すると、七つの宝でできた華の中からおのずと生れて不退転の位に至ります。智慧が大変すぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのです。
 したがって、釈尊は阿難にこの世で阿弥陀仏を見たいと思うならば、菩提心をおこし功徳を積んで、阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うべきである、と説き勧めています。
 次に中輩とは、上輩のように沙門となって大きな功徳を積むことができませんが、菩提心をおこして、一向に専ら阿弥陀仏を念じ、多少の善を修める者をいいます。多少の善とは、戒めを守り、堂塔を建て、仏像を造り、沙門に食物を供養したり、仏像の上部に天蓋をかけ、灯明を献じ、仏を供養したりすることをいいます。これらの功徳によって阿弥陀仏の浄土に生れたいと願う者が命を終えようとするとき、阿弥陀仏はその衆生を救うために、その衆生の性質や能力に応じてさまざまな姿をとった化身として現れてくださいます。この化身の仏にしたがって浄土に往生して、不退転の位に至ります。この功徳や智慧は上輩に次ぐものです。
 そして下輩とは、さまざまな功徳を積むことができないとしても、菩提心をおこし、一向に心を一つにして、わずか十回ほどでも阿弥陀仏を念じて、浄土に生れたいと願う者をいいます。もし奥深い教えを聞いて歓喜して心から信じ、疑いの心をおこさずに、わずか一回でも阿弥陀仏を念じて、まことの心で浄土に生れたいと願うならば、命を終えようとするとき、夢に見るかのように阿弥陀仏を見たてまつり、浄土に往生することができます。この功徳や智慧は中輩に次ぐものです。
 
 このように三輩往生の段には、念仏だけではなく、家を捨て、欲を離れることや堂塔を建て、仏像を造ることや菩提心などさまざまな行も説かれています。法然聖人はこれらの行を、念仏以外の行であるとして「余行」と呼び、なぜ『無量寿経』に余行が説かれているのに、「念仏往生」というのかを問題としています。
 その答えとして、善導大師の解釈によって釈尊の説法の特徴について示しています。釈尊は衆生の素質や能力はそれぞれ異なっているから、上輩・中輩・下輩に分けて、それぞれの能力に応じた行として、阿弥陀仏の名を念じることを勧められたのであるとしています。この解釈によって、法然聖人は三輩ともに「念仏往生」を説いていると述べています。しかし、この解釈では余行を棄てる理由を示したわけではありませんでした。

法然聖人とその門弟の教学 第19回

法然聖人とその門弟の教学
第19回 「『無量寿経』の一念」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人の主著『選択本願念仏集』(『選択集』)には、『無量寿経』に「一念」が三か所に説かれていることを指摘しています。その三か所とは、(1)第十八願成就文、(2)三輩段の下輩の文、(3)流通分の弥勒付属の文です。いずれの「一念」も一声の称名念仏と理解されています。
 (1)第十八願成就文は、阿弥陀仏の第十八願が成就したことを表す文のことをいい、『選択集』の第三「本願章」と呼ばれる章に引用されています。

  もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、
  心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。

 この第十八願成就文は、「すべての衆生は、阿弥陀仏の名号を聞いて信じ喜び、わずか一声でも念仏し、心からその功徳をもって阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うならば、みな往生することができ、不退転の位に至るのです」という意味です。法然聖人は、この文が『無量寿経』にあることを根拠として、第十八願(本願)が成就されていることを示されました。この文に「乃至一念」とあります。
 (2)三輩とは、『無量寿経』に説かれている浄土往生を願う修行者を、三種類に区分したことをいいます。三種類とは、上輩・中輩・下輩に分けられます。
上輩とは、出家して修行者となり、さとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏(無量寿仏)を念じ、さまざまな功徳を修める者をいいます。中輩とは、出家することはありませんが、さとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏を念じ、多少の善を修める者をいいます。
 そして下輩とは、功徳を積むことができない者のことで、それでもさとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏を念じる者をいいます。この下輩の文に「乃至一念かの仏を念じ」とあります。
 法然聖人は三輩段全体を、『選択集』第四の「三輩章」と呼ばれる章に引用して、三輩すべての人が念仏によって往生することを説かれています。
 (3)流通分とは、経典の最後に説き明かされ、釈尊が説法を終えるにあたって、この経の教えを流布するよう勧められている部分をいいます。『無量寿経』では、釈尊が弥勒菩薩に教えを後世に伝えるよう託しています。この与え託すことを付属といいます。

  仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍し、
  乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足す」と。

 この文は、「釈尊が弥勒菩薩に、『阿弥陀仏の名号を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一声でも念仏すれば、この人は大きな利益を得る者です。この上ない功徳を身にそなえるのです』と仰せになりました」という意味です。
 法然聖人はこの文を、『選択集』第五「利益章」と呼ばれる章に引用されています。一声一声の称名念仏には、往生浄土という大きな利益を得ることができ、この上ない功徳がそなわることを明らかにされています。

法然聖人とその門弟の教学 第18回

法然聖人とその門弟の教学
第18回 「誓願成就」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、浄土宗を立教開宗するにあたり、正しく往生浄土を明かす教として「三経一論」を依りどころとされています。三経とは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』をいい、この三経を法然聖人が初めて「浄土三部経」と名づけられました。また、一論とは天親菩薩の『浄土論』をいいます。
 浄土三部経の中、阿弥陀仏の本願(選択本願)が誓われているのは『無量寿経』二巻です。『無量寿経』は、上巻に法蔵菩薩が四十八願をおこし修行して、阿弥陀仏になられたことが説かれています。なかでも法然聖人は、「本願中の王」と称された第十八願を根本の願とし、念仏往生を説き表されました。
 一方、下巻ではこの阿弥陀仏の本願が成就されていることが説かれています。阿弥陀仏の本願が成就したことを、釈尊によって述べられた文を「成就文」といいます。中国の浄土教では成就文に注目されることはありませんでしたが、法然聖人は『選択本願念仏集』において言及されています。
 『選択本願念仏集』には、法蔵菩薩の誓願がすでに成就しているのか、あるいはいまだ成就していないのかを問題とするところがあります。その答えとして、『無量寿経』には、「地獄・餓鬼・畜生(三悪趣)などのさまざまな苦しみの世界はありません」「再び悪趣にかえることはありません」「阿弥陀仏の浄土に生まれた者はみな三十二相のすぐれた仏のすがたがそなわっています」と説かれていることを例に挙げ、法蔵菩薩の四十八願は初めから終わりまで、一つひとつの誓願がそれぞれ成就されていると述べています。したがって、第十八の「念仏往生の願」だけが、成就されていないことがあろうかといって、第十八願成就文を引用しています。 


  もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、
  心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。


 この第十八願成就文は、「すべての衆生は、阿弥陀仏の名号を聞いて信じ喜び、わずか一声念仏する者に至るまで、心からその功徳をもって阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うならば、みな往生することができ、不退転の位に至るのです」という意味です。この文が『無量寿経』にあることをもって、法然聖人は第十八願が成就していると結論づけられました。
法然聖人は、この第十八願成就文の「一念」を一声の念仏と解釈されています。また、「回向」の主語は「衆生」であり、「回向して」と読まれています。そして、第十八願文の引用と同じく「唯除五逆誹謗正法」を省略されています。これらの点は、門弟の親鸞聖人と異なります。
 さらに、法然聖人は本願が成就されている根拠として、四十八願すべてに「不取正覚(もしそうでなければさとることはありません)」と誓われていることや、阿弥陀仏が仏に成られてから今まで十劫が経っていると説かれていることに注目されています。だからこそ法然聖人は、善導大師が『往生礼讃』において、


  かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、
  本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。


 すなわち、「阿弥陀仏はいま現に世にいらっしゃって、仏と成っておられます。ですから、深く重ねて誓われた阿弥陀仏の本願とは、決して何のはたらきもないむなしいものではありません。私たちが称名念仏すれば、必ず浄土に往生することができると知るべきです」と述べられている文に注目して、阿弥陀仏の誓願が成就しているからこそ、念仏往生は間違いのないことを強調されているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第17回

法然聖人とその門弟の教学
第17回 「善導大師の本願観」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は「念仏往生」を主張する根拠として、第十八願に「乃至十念」が誓われていることを強調しています。「乃至十念」を解釈するにあたっては、善導大師がこれを「下至十声」と示されたことに注目しました。法然聖人の『選択本願念仏集』には、このことを表すために、次の善導大師の『観念法門』と『往生礼讃』の文を引用しています。
 『観念法門』には、阿弥陀仏の本願とは、

  もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること
  下十声に至らんに、わが願力に乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ。

と、「わたしが仏になったとき、すべての世界の生きとし生けるものが、わたしの国に生れようと願って、わたしの名号を称えること、わずか十回ほどであっても、わたしの本願のはたらきによって往生することができなかったなら、わたしは決してさとりを開くことはありません」と誓われたものであるとしています。
 また、『往生礼讃』では、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と、『観念法門』とほぼ同じ文言を示した直後に、次の文をつづけています。

  かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、
  衆生称念すればかならず往生することを得。
 

 すなわち、「阿弥陀仏はいま現に世にいらっしゃって、仏と成っておられます。ですから、深く重ねて誓われた阿弥陀仏の本願とは、決して何のはたらきもないむなしいものではありません。私たちが称名念仏すれば、必ず浄土に往生することができると知るべきです」と述べています。
 このように阿弥陀仏の本願とは、遠い過去のものではなく、いま現に私たちにはたらいていることを示し、そしてその本願とは、願われた通りに成就しているからこそ、「念仏往生」を説くことができるのです。
 また、善導大師の本願観は、『観念法門』と『往生礼讃』の文だけではなく、『観経』を註釈した『観経疏』にも見ることができます。

  法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。
  一々の願にのたまはく、「もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に
  生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
  いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。(「玄義分」)


 この文は、『無量寿経』には「法蔵菩薩が世自在王仏のもとで菩薩道を行じられていたとき、四十八願をおこされました。四十八願はそれぞれの願に『わたしが仏になったとき、すべての世界の生きとし生けるものが、わたしの名号を称えてわたしの国に生れようと願い、わずか十回ほどの念仏であっても、わたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くことはありません』と誓われた、と説かれています。その法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏と成っておられます。これは誓願に報いてあらわれた仏身(報身)です」という意味です。
 このように善導大師は、阿弥陀仏の四十八願の一つひとつの願とは、第十八願の意を表したものであるとされ、四十八願の全体を「念仏往生」が誓われた願であると捉えているのです。さらに、すでに阿弥陀仏と成り、その浄土が成就していることも第十八願によって語られているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第16回

法然聖人とその門弟の教学
第16回 「乃下合釈」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、『無量寿経』第十八願に誓われている「乃至十念」と、これを「下至十声」とみられた善導大師の解釈(『観念法門』と『往生礼讃』本願取意の文)との同異を問題としています。すなわち、「乃至十念」を「乃至」と「十念」に、「下至十声」を「下至」と「十声」とに分け、それぞれの対応関係を考えています。
 まず第十八願の「十念」と善導大師の「十声」とを、「念声是一」として、「念」は「声」と同一であると理解し、念仏を称名であるとしています。
 次に第十八願の「乃至」と善導大師の「下至」との関係を問題としています。これまた法然聖人は、「乃至」と「下至」とその意味するところは同一であると説いています。この「乃至」と「下至」とを合わせて解釈することを、乃下合釈といいます。
 そのうえで『無量寿経』に「乃至」と説かれているのは、多より少に向かう言葉であると述べています。この多とは、一生涯にわたる念仏をいい、少とは十声・一声の念仏に至るまでを表しています。つまり、「乃至」という言葉によって、一生涯から十声・一声までの念仏すべてを含んだ表現となるのです。
 一方、善導大師の解釈である「下至」については、「下」は「上」に対する言葉であって、「下」とは十声・一声に至るまでという意味であり、「上」とは一生涯を尽すまでと示しています。したがって、善導大師が「下至」と解釈したのは、「上尽」を省略した形で表しているとことになります。「下至」も「乃至」と同じく、一生涯から十声・一声までの念仏すべてということとなります。
 このように上下相対の意味として「下至」と表現することは、善導大師独自ではなく、法然聖人はその例が多いことを指摘しています。例えば、阿弥陀仏の四十八願には、八つの願(第五願・第六願・第七願・第八願・第九願・第十二願・第十三願・第十四願)に、「下至」という表現を見ることができるからです。第五願・第六願・第七願・第八願・第九願は、それぞれ宿命通(過去のありさまを知る能力)・天眼通(人びとの未来を予知する能力)・天耳通(すべての音や言葉を聞くことができる能力)・他心通(他人の考えていることを知る能力)・神足通(行きたいところに自由に現れることができる能力)の五つのすぐれた能力が誓われています。また、第十二願には光明無量が、第十三願には寿命無量が誓われ、そして第十四願は声聞無量の願といわれています。
 このように善導大師が解釈された「下至」という言葉は、『無量寿経』の意味と相違することはありません。しかし、これまでの諸師は「乃至」の意味を見落としてしまっていて、「十念」に限定して第十八願を「十念往生の願」といわれてきました。これについて、法然聖人は、善導大師だけが「念仏往生の願」といわれたといい、「十念往生の願」ではその意味が十分に表されきれていないと述べています。その理由を、十念だけでは一生涯の念仏も、一声の念仏も含まれないこととなり、「乃至」の意味を表すことができないからだといいます。
 したがって、法然聖人は善導大師が「念仏往生の願」といわれたのは、

善導の総じて念仏往生の願といふは、その意すなはちあまねし。しかる所以は、上一形を取り、下一念を取るゆゑなり。(『選択本願念仏集』)

と、第十八願の意味を十分に表したものであるとし、その理由を、一生涯の念仏も、わずか一声の念仏もすべて含まれるからであると述べています。