法然聖人とその門弟の教学 第20回

法然聖人とその門弟の教学
第20回 「三輩念仏往生」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 『無量寿経』巻下は、第十一願・第十七願・第十八願成就文が説かれた後、三輩往生の段がつづいています。三輩とは、浄土往生を願う修行者を、三種類に区別したものをいいます。三種類とは、上輩・中輩・下輩と名づけられて、それぞれ修行の内容によって分けられています。
 
 上輩とは、家を捨て、欲を離れて修行者(沙門)となり、さとりを求める心(菩提心)をおこして、ただひたすらに(一向に専ら)阿弥陀仏(無量寿仏)を念じ、さまざまな功徳を積んで、阿弥陀仏の浄土に生れたいと願う者をいいます。これらの衆生が命を終えようとするとき、阿弥陀仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださいます。そして阿弥陀仏にしたがって浄土に往生すると、七つの宝でできた華の中からおのずと生れて不退転の位に至ります。智慧が大変すぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのです。
 したがって、釈尊は阿難にこの世で阿弥陀仏を見たいと思うならば、菩提心をおこし功徳を積んで、阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うべきである、と説き勧めています。
 次に中輩とは、上輩のように沙門となって大きな功徳を積むことができませんが、菩提心をおこして、一向に専ら阿弥陀仏を念じ、多少の善を修める者をいいます。多少の善とは、戒めを守り、堂塔を建て、仏像を造り、沙門に食物を供養したり、仏像の上部に天蓋をかけ、灯明を献じ、仏を供養したりすることをいいます。これらの功徳によって阿弥陀仏の浄土に生れたいと願う者が命を終えようとするとき、阿弥陀仏はその衆生を救うために、その衆生の性質や能力に応じてさまざまな姿をとった化身として現れてくださいます。この化身の仏にしたがって浄土に往生して、不退転の位に至ります。この功徳や智慧は上輩に次ぐものです。
 そして下輩とは、さまざまな功徳を積むことができないとしても、菩提心をおこし、一向に心を一つにして、わずか十回ほどでも阿弥陀仏を念じて、浄土に生れたいと願う者をいいます。もし奥深い教えを聞いて歓喜して心から信じ、疑いの心をおこさずに、わずか一回でも阿弥陀仏を念じて、まことの心で浄土に生れたいと願うならば、命を終えようとするとき、夢に見るかのように阿弥陀仏を見たてまつり、浄土に往生することができます。この功徳や智慧は中輩に次ぐものです。
 
 このように三輩往生の段には、念仏だけではなく、家を捨て、欲を離れることや堂塔を建て、仏像を造ることや菩提心などさまざまな行も説かれています。法然聖人はこれらの行を、念仏以外の行であるとして「余行」と呼び、なぜ『無量寿経』に余行が説かれているのに、「念仏往生」というのかを問題としています。
 その答えとして、善導大師の解釈によって釈尊の説法の特徴について示しています。釈尊は衆生の素質や能力はそれぞれ異なっているから、上輩・中輩・下輩に分けて、それぞれの能力に応じた行として、阿弥陀仏の名を念じることを勧められたのであるとしています。この解釈によって、法然聖人は三輩ともに「念仏往生」を説いていると述べています。しかし、この解釈では余行を棄てる理由を示したわけではありませんでした。

法然聖人とその門弟の教学 第19回

法然聖人とその門弟の教学
第19回 「『無量寿経』の一念」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人の主著『選択本願念仏集』(『選択集』)には、『無量寿経』に「一念」が三か所に説かれていることを指摘しています。その三か所とは、(1)第十八願成就文、(2)三輩段の下輩の文、(3)流通分の弥勒付属の文です。いずれの「一念」も一声の称名念仏と理解されています。
 (1)第十八願成就文は、阿弥陀仏の第十八願が成就したことを表す文のことをいい、『選択集』の第三「本願章」と呼ばれる章に引用されています。

  もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、
  心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。

 この第十八願成就文は、「すべての衆生は、阿弥陀仏の名号を聞いて信じ喜び、わずか一声でも念仏し、心からその功徳をもって阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うならば、みな往生することができ、不退転の位に至るのです」という意味です。法然聖人は、この文が『無量寿経』にあることを根拠として、第十八願(本願)が成就されていることを示されました。この文に「乃至一念」とあります。
 (2)三輩とは、『無量寿経』に説かれている浄土往生を願う修行者を、三種類に区分したことをいいます。三種類とは、上輩・中輩・下輩に分けられます。
上輩とは、出家して修行者となり、さとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏(無量寿仏)を念じ、さまざまな功徳を修める者をいいます。中輩とは、出家することはありませんが、さとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏を念じ、多少の善を修める者をいいます。
 そして下輩とは、功徳を積むことができない者のことで、それでもさとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏を念じる者をいいます。この下輩の文に「乃至一念かの仏を念じ」とあります。
 法然聖人は三輩段全体を、『選択集』第四の「三輩章」と呼ばれる章に引用して、三輩すべての人が念仏によって往生することを説かれています。
 (3)流通分とは、経典の最後に説き明かされ、釈尊が説法を終えるにあたって、この経の教えを流布するよう勧められている部分をいいます。『無量寿経』では、釈尊が弥勒菩薩に教えを後世に伝えるよう託しています。この与え託すことを付属といいます。

  仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍し、
  乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足す」と。

 この文は、「釈尊が弥勒菩薩に、『阿弥陀仏の名号を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一声でも念仏すれば、この人は大きな利益を得る者です。この上ない功徳を身にそなえるのです』と仰せになりました」という意味です。
 法然聖人はこの文を、『選択集』第五「利益章」と呼ばれる章に引用されています。一声一声の称名念仏には、往生浄土という大きな利益を得ることができ、この上ない功徳がそなわることを明らかにされています。

法然聖人とその門弟の教学 第18回

法然聖人とその門弟の教学
第18回 「誓願成就」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、浄土宗を立教開宗するにあたり、正しく往生浄土を明かす教として「三経一論」を依りどころとされています。三経とは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』をいい、この三経を法然聖人が初めて「浄土三部経」と名づけられました。また、一論とは天親菩薩の『浄土論』をいいます。
 浄土三部経の中、阿弥陀仏の本願(選択本願)が誓われているのは『無量寿経』二巻です。『無量寿経』は、上巻に法蔵菩薩が四十八願をおこし修行して、阿弥陀仏になられたことが説かれています。なかでも法然聖人は、「本願中の王」と称された第十八願を根本の願とし、念仏往生を説き表されました。
 一方、下巻ではこの阿弥陀仏の本願が成就されていることが説かれています。阿弥陀仏の本願が成就したことを、釈尊によって述べられた文を「成就文」といいます。中国の浄土教では成就文に注目されることはありませんでしたが、法然聖人は『選択本願念仏集』において言及されています。
 『選択本願念仏集』には、法蔵菩薩の誓願がすでに成就しているのか、あるいはいまだ成就していないのかを問題とするところがあります。その答えとして、『無量寿経』には、「地獄・餓鬼・畜生(三悪趣)などのさまざまな苦しみの世界はありません」「再び悪趣にかえることはありません」「阿弥陀仏の浄土に生まれた者はみな三十二相のすぐれた仏のすがたがそなわっています」と説かれていることを例に挙げ、法蔵菩薩の四十八願は初めから終わりまで、一つひとつの誓願がそれぞれ成就されていると述べています。したがって、第十八の「念仏往生の願」だけが、成就されていないことがあろうかといって、第十八願成就文を引用しています。 


  もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、
  心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。


 この第十八願成就文は、「すべての衆生は、阿弥陀仏の名号を聞いて信じ喜び、わずか一声念仏する者に至るまで、心からその功徳をもって阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うならば、みな往生することができ、不退転の位に至るのです」という意味です。この文が『無量寿経』にあることをもって、法然聖人は第十八願が成就していると結論づけられました。
法然聖人は、この第十八願成就文の「一念」を一声の念仏と解釈されています。また、「回向」の主語は「衆生」であり、「回向して」と読まれています。そして、第十八願文の引用と同じく「唯除五逆誹謗正法」を省略されています。これらの点は、門弟の親鸞聖人と異なります。
 さらに、法然聖人は本願が成就されている根拠として、四十八願すべてに「不取正覚(もしそうでなければさとることはありません)」と誓われていることや、阿弥陀仏が仏に成られてから今まで十劫が経っていると説かれていることに注目されています。だからこそ法然聖人は、善導大師が『往生礼讃』において、


  かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、
  本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。


 すなわち、「阿弥陀仏はいま現に世にいらっしゃって、仏と成っておられます。ですから、深く重ねて誓われた阿弥陀仏の本願とは、決して何のはたらきもないむなしいものではありません。私たちが称名念仏すれば、必ず浄土に往生することができると知るべきです」と述べられている文に注目して、阿弥陀仏の誓願が成就しているからこそ、念仏往生は間違いのないことを強調されているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第17回

法然聖人とその門弟の教学
第17回 「善導大師の本願観」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は「念仏往生」を主張する根拠として、第十八願に「乃至十念」が誓われていることを強調しています。「乃至十念」を解釈するにあたっては、善導大師がこれを「下至十声」と示されたことに注目しました。法然聖人の『選択本願念仏集』には、このことを表すために、次の善導大師の『観念法門』と『往生礼讃』の文を引用しています。
 『観念法門』には、阿弥陀仏の本願とは、

  もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること
  下十声に至らんに、わが願力に乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ。

と、「わたしが仏になったとき、すべての世界の生きとし生けるものが、わたしの国に生れようと願って、わたしの名号を称えること、わずか十回ほどであっても、わたしの本願のはたらきによって往生することができなかったなら、わたしは決してさとりを開くことはありません」と誓われたものであるとしています。
 また、『往生礼讃』では、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と、『観念法門』とほぼ同じ文言を示した直後に、次の文をつづけています。

  かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、
  衆生称念すればかならず往生することを得。
 

 すなわち、「阿弥陀仏はいま現に世にいらっしゃって、仏と成っておられます。ですから、深く重ねて誓われた阿弥陀仏の本願とは、決して何のはたらきもないむなしいものではありません。私たちが称名念仏すれば、必ず浄土に往生することができると知るべきです」と述べています。
 このように阿弥陀仏の本願とは、遠い過去のものではなく、いま現に私たちにはたらいていることを示し、そしてその本願とは、願われた通りに成就しているからこそ、「念仏往生」を説くことができるのです。
 また、善導大師の本願観は、『観念法門』と『往生礼讃』の文だけではなく、『観経』を註釈した『観経疏』にも見ることができます。

  法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。
  一々の願にのたまはく、「もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に
  生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
  いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。(「玄義分」)


 この文は、『無量寿経』には「法蔵菩薩が世自在王仏のもとで菩薩道を行じられていたとき、四十八願をおこされました。四十八願はそれぞれの願に『わたしが仏になったとき、すべての世界の生きとし生けるものが、わたしの名号を称えてわたしの国に生れようと願い、わずか十回ほどの念仏であっても、わたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くことはありません』と誓われた、と説かれています。その法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏と成っておられます。これは誓願に報いてあらわれた仏身(報身)です」という意味です。
 このように善導大師は、阿弥陀仏の四十八願の一つひとつの願とは、第十八願の意を表したものであるとされ、四十八願の全体を「念仏往生」が誓われた願であると捉えているのです。さらに、すでに阿弥陀仏と成り、その浄土が成就していることも第十八願によって語られているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第16回

法然聖人とその門弟の教学
第16回 「乃下合釈」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、『無量寿経』第十八願に誓われている「乃至十念」と、これを「下至十声」とみられた善導大師の解釈(『観念法門』と『往生礼讃』本願取意の文)との同異を問題としています。すなわち、「乃至十念」を「乃至」と「十念」に、「下至十声」を「下至」と「十声」とに分け、それぞれの対応関係を考えています。
 まず第十八願の「十念」と善導大師の「十声」とを、「念声是一」として、「念」は「声」と同一であると理解し、念仏を称名であるとしています。
 次に第十八願の「乃至」と善導大師の「下至」との関係を問題としています。これまた法然聖人は、「乃至」と「下至」とその意味するところは同一であると説いています。この「乃至」と「下至」とを合わせて解釈することを、乃下合釈といいます。
 そのうえで『無量寿経』に「乃至」と説かれているのは、多より少に向かう言葉であると述べています。この多とは、一生涯にわたる念仏をいい、少とは十声・一声の念仏に至るまでを表しています。つまり、「乃至」という言葉によって、一生涯から十声・一声までの念仏すべてを含んだ表現となるのです。
 一方、善導大師の解釈である「下至」については、「下」は「上」に対する言葉であって、「下」とは十声・一声に至るまでという意味であり、「上」とは一生涯を尽すまでと示しています。したがって、善導大師が「下至」と解釈したのは、「上尽」を省略した形で表しているとことになります。「下至」も「乃至」と同じく、一生涯から十声・一声までの念仏すべてということとなります。
 このように上下相対の意味として「下至」と表現することは、善導大師独自ではなく、法然聖人はその例が多いことを指摘しています。例えば、阿弥陀仏の四十八願には、八つの願(第五願・第六願・第七願・第八願・第九願・第十二願・第十三願・第十四願)に、「下至」という表現を見ることができるからです。第五願・第六願・第七願・第八願・第九願は、それぞれ宿命通(過去のありさまを知る能力)・天眼通(人びとの未来を予知する能力)・天耳通(すべての音や言葉を聞くことができる能力)・他心通(他人の考えていることを知る能力)・神足通(行きたいところに自由に現れることができる能力)の五つのすぐれた能力が誓われています。また、第十二願には光明無量が、第十三願には寿命無量が誓われ、そして第十四願は声聞無量の願といわれています。
 このように善導大師が解釈された「下至」という言葉は、『無量寿経』の意味と相違することはありません。しかし、これまでの諸師は「乃至」の意味を見落としてしまっていて、「十念」に限定して第十八願を「十念往生の願」といわれてきました。これについて、法然聖人は、善導大師だけが「念仏往生の願」といわれたといい、「十念往生の願」ではその意味が十分に表されきれていないと述べています。その理由を、十念だけでは一生涯の念仏も、一声の念仏も含まれないこととなり、「乃至」の意味を表すことができないからだといいます。
 したがって、法然聖人は善導大師が「念仏往生の願」といわれたのは、

善導の総じて念仏往生の願といふは、その意すなはちあまねし。しかる所以は、上一形を取り、下一念を取るゆゑなり。(『選択本願念仏集』)

と、第十八願の意味を十分に表したものであるとし、その理由を、一生涯の念仏も、わずか一声の念仏もすべて含まれるからであると述べています。

法然聖人とその門弟の教学 第15回

法然聖人とその門弟の教学
第15回 「念声是一」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、何をもって阿弥陀仏が念仏以外の行(余行)を本願とされずに、ただ念仏を衆生の往生のための本願であるとされたと説いたのでしょうか。それは『無量寿経』巻上に説示されている第十八願の文に根拠があります。第十八願文とは、漢文で書きますと、以下の三十六文字によって成り立っています。

  設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法

これを書き下しますと、次の通りです。

  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せん。
  もし生ぜずといはば、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
 
 この願文の意味は、「わたしが仏になるとき、生きとし生けるものすべてが心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようならば、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆罪を犯したものや仏の教えを謗るものは除かれます」です。
 
 この第十八願文の中、法然聖人の『選択本願念仏集』では、「唯除五逆誹謗正法」を省略して引用しています。なぜ省略しているのか、その理由については、専修念仏の教えを誤解し、批判する者がいることを想定していたからではないかと考えられますが、思想的な背景としては、第十八願文をどのように解釈するのか、といった問題があります。
 
 法然聖人は経典を解釈する際に、「偏依善導一師(偏に善導一師に依る)」と主張するほど、他のだれよりも善導大師がどのように解釈しているのかに注目しています。第十八願についても同様で、善導大師における第十八願の理解が示された文(『観念法門』と『往生礼讃』)を引用して、その解釈を施しています。法然聖人が特に重視したのは、第十八願に誓われた「乃至十念」を、善導大師が「下至十声」といわれたことです。
 
 法然聖人は「乃至十念」を、「乃至」と「十念」とに分け、まず第十八願に「十念」といい、善導大師がこれを「十声」と解釈したことについて問題としています。この「念」と「声」とは同じであるのか、違うのか、という問いを設け、この問いに対して、法然聖人は「念」と「声」とは同一である(念声是一)と位置づけました。つまり、善導大師が「念」を「声」と解釈されたのは、第十八願に誓われた念仏を、声に出して称える念仏、すなわち称名念仏であると明確に示したということなのです。
 
 また、念と声が同一であることを、『観無量寿経』の下品下生の文と『大集経』の「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」という文、さらにこの文を解釈した懐感禅師の『群疑論』を引用して、第十八願に誓われた「十念」が十回の称名念仏であることを強調しています。

法然聖人とその門弟の教学 第14回

法然聖人とその門弟の教学
第14回 「平等の慈悲」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は「だれもが」実践できる易しい行こそ勝れていると説いています。それは決してごく限られた人ではなく、だれもが共通して実践できるという点に重きを置いています。つまり、念仏は易行であるからこそ、すべての人に開かれた行であり、諸行は難行であるから、すべての人に通じるとは言えません。このような理由から、阿弥陀仏は生きとし生けるものすべてを平等に往生させるために、難行を捨てて、易行を選び取って、本願とされたのです。
 
 そこで法然聖人は、本願の念仏がすべての人に開かれているという意味を具体的に述べています。例えば仏像を造り、塔寺を建てることを本願に誓われているとするならば、経済的に貧しく生活が困窮している者は往生できないということになります。ところが、富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 次に智慧才能のあることを本願に誓われているとするならば、愚かで智慧の劣った者は往生できないということになります。ところが、智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 さらに、仏の教えを多く見聞して学問があることを本願に誓われているとするならば、仏の教えをあまり見聞したことのない者は往生できないということになります。ところが、多く学んだ者は少なく、見聞が少ない者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 そして、戒律を堅くたもつことを本願に誓われているとするならば、破戒や無戒の者は往生できないということになります。ところが、戒をたもつ者は少なく、戒を破る者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 このように阿弥陀仏の本願には、だれにでも実践できる易行が誓われているのですが、その根源には「平等の慈悲」に基づくことが示されています。

  しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、
  造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。
  (『選択本願念仏集』)

 この文は、「阿弥陀如来は、法蔵菩薩であった昔に、平等の慈悲の心を起こされて、生きとし生けるものすべてを救うために、仏像を造り、塔寺を建てることなどの諸行を往生の本願とはされずに、ただ称名念仏の一行を本願とされた」という意味です。つまり、阿弥陀仏の本願に念仏一行のみが誓われているのは、すべてに向けられた誓いであるからであり、平等の慈悲によって起こされた願いであるからです。
 
 さらに法然聖人は、法照禅師の『五会法事讃』を引用して、「阿弥陀仏の本願とは破戒の者であろうとも罪深い者であろうともすべてを救いの対象としているのであり、回心して多く念仏すれば、瓦や小石は黄金に変わってしまう」と説いています。

法然聖人とその門弟の教学 第13回

法然聖人とその門弟の教学
第13回 「難易の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人における念仏の特徴は、「勝易具足」にあります。『選択本願念仏集』には、勝劣の義につづいて「難易の義」を示しています。

  難易の義とは、念仏は修しやすく、諸行は修しがたし。(『選択本願念仏集』)

 難易の義とは、念仏と諸行とを比較して、念仏は修め易く、諸行は修め難いと規定することをいいます。このことを証明する文として、法然聖人は善導大師の『往生礼讃』と源信和尚の『往生要集』を引用しています。
 まず善導大師の『往生礼讃』では、われわれにはどのような念仏を勧められているのかを問題としています。つまり、観念ではなく、どうして称名念仏であるのか、という問いを設定しています。
 観念とは、心を静かにして仏のすがたや功徳を観察し、思念することをいいます。しかし、観念の対象は細やかで、心を集中させなければならないのですが、われわれの心は粗雑で、うわついており、常に動揺していて、とても観念を成就することは難しいことです。そのため釈尊は、このようなわれわれを哀れんで、ただ専ら名号を称えることを勧められたのであると、この問いに対し、答えています。したがって、称名念仏は修め易いので、これを続けて(相続して)、往生することができることを述べています。
 この『往生礼讃』の文を引用することによって、法然聖人はわれわれが実践可能であり、相続していくことのできる易行とは何かに焦点を当てつつ、われわれの心のありようを明らかにされています。
 次に源信和尚の『往生要集』では、阿弥陀仏が本願に称名念仏を選択された意味を述べています。つまり、あらゆる善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どうして、ただ念仏の一門のみを勧められているのか、という問いを設定し、念仏を勧められる理由を、次のように答えています。

  ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず
  (『選択本願念仏集』、『往生要集』引文)

 念仏を修めることは、男性でも女性でも、身分の高い人であっても、そうではない人であっても、歩くこと、とどまること、坐ること、臥すことのどのような生活をしていても、時間や場所、さまざまな条件を論じる必要はないから、難しくないといわれています。
 このように『往生要集』から、念仏とは「いつでも、どこでも、だれでも」実践することができる易行であると説かれているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第12回

法然聖人とその門弟の教学
第12回 「勝劣の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 

 法然聖人の教えは「念仏往生」です。この念仏には勝易の二徳があることを明らかにされています。勝易二徳とは、念仏は勝れた行であり、しかも易しい行であるという二つの徳がそなわっていることをいいます。これは法然聖人が、仏のみ心を試みに思い測ってみたときに、念仏と念仏以外の行(余行、諸行)とを比較することによって導き出した解釈であり、それぞれ「勝劣の義」「難易の義」と表しています。この中、初めの勝劣の義を次のように述べています。

 

  初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。
  所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。(『選択本願念仏集』)

 

 この文は、「初めに勝劣の義とは、念仏は勝れ、ほかの行は劣っています。なぜ念仏の一行が最も勝れた行であるのかというと、南無阿弥陀仏の名号にはあらゆる徳がおさまっているからです」という意味です。法然聖人は念仏が勝れている根拠を、「名号はこれ万徳の帰するところなり」と結論づけています。

 このようにあらゆる功徳が阿弥陀仏の名号におさまっていることについて、法然聖人は阿弥陀仏の内にそなわっている功徳と外側に現れる功徳があることを説明しています。つまり、阿弥陀仏の内には、四智(大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四種の智慧)・三身(法身、報身、応身の三種の仏身)・十力(処非処智力、業異熟智力、静慮解脱等持等至智力、根上下智力、種種勝解智力、種種界智力、遍趣行智力、宿住随念智力、死生智力、漏尽智力の十種の力)・四無畏(正等覚無所畏、漏永尽無所畏、説障道無所畏、説出道無所畏の四種の表現能力)などのさとりのすべての功徳が得られているといい、外側には相好(すぐれた容貌、形相)・光明・説法・利生(衆生を利益すること)などの功徳が現れているといいます。

 このようにさとりの功徳のすべてが阿弥陀仏の名号の中におさまっているので、名号の功徳を最も勝れているといい、余行はそうではなく、それぞれ一部分の功徳だけであるから、劣っているというのです。

 これについては、「屋舎のたとえ」によって、念仏と余行との関係を述べています。つまり、家(屋舎)は、棟・梁・椽・柱など家を構成するすべての材料を含んで完成しているけれども、棟・梁などは家の一部分を示したものです。これは名号を家に、余行を家の一部分にたとえたものです。この屋舎のたとえによって、名号はすべての功徳をおさめ完成しているけれども、余行は名号の一部分の功徳にすぎないということを明らかにしているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第11回

法然聖人とその門弟の教学
第11回 「聖意測りがたし」「仏意測りがたし」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は『無量寿経』によって、法蔵菩薩が建立した本願とは、粗悪なものを選捨して、善妙なものを選取したものであると述べています。では、どのような理由によって第十八願には、一切の諸行(ありとあらゆる行)を選捨して、ただひとえに念仏の一行のみを選取して、衆生の往生を誓う本願とされたのでしょうか。法然聖人はこのような問いを設けて、次のように答えています。

  聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。しかりといへどもいま試みに二の義を
  もつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。(『選択本願念仏集』)

 この文は、「仏のみ心を思い測ることは難しい。容易に解釈することはできないけれども、いま試みに二つの義によってこれを解釈してみると、勝劣の義と難易の義とがある」という意味です。法然聖人は、第十八願に誓われている念仏とそれ以外の諸行とを比較して、念仏には勝と易の二つの義があり、諸行には劣と難の義があることを示しています。ここでは念仏のみを取り上げて、念仏には勝と易の義があると言っているのではありません。あくまでも諸行と比べて、念仏とは勝れた行であり、易しい行であると指摘しています。
 また、「聖意測りがたし。しかりといへども」という表現は、親鸞聖人においても用いられています。

  仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、
  無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽
  にして真実の心なし。(『教行信証』「信巻」)

 これは『教行信証』「信巻」の三一問答とよばれている中に出てくる文です。三一問答とは、第十八願文の「至心・信楽・欲生」の三心と、天親菩薩が『浄土論』で表した「一心」との関係を明らかにするために設けられた問答をいいます。
 親鸞聖人は、法然聖人と同じく「仏意測りがたし、しかりといへども」と、如来のみ心は思い測ることは難しいとしながら、「ひそかにこの心を推するに」と、自ら如来の心をたずねています。このような態度は何を意味しているのでしょうか。法然聖人も親鸞聖人もその姿勢を謙虚であるという言葉で言い表すのみではすべてを語ったということにはならないでしょう。なぜならば「仏意測りがたし」とは、自らの器量やはからいによって仏意を掌握できるような如来の救済法ではないことを、仏意と向き合ってこそはじめて仏意そのものが知らされたからです。
 これによって、親鸞聖人は自身も含め、一切衆生には「はかり知れない昔から今日今時に至るまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、うそいつわり、へつらうばかりで真実の心がない」ことを明らかにしているのです。