法然聖人とその門弟の教学 第8回

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法然聖人とその門弟の教学
第8回 「百即百生と千中無一」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人が雑行を捨てて、正行を専ら修めるべきことを主張されたのは善導大師の文に基づいています。その文とは、善導大師の『観無量寿経』の見方が示されている『観経疏』と、浄土に往生したいと願う者の実践が説き述べられた『往生礼讃』の文です。

 『往生礼讃』には、生涯にわたって念仏を称える者は、十人いれば十人すべてが浄土に往生し、百人いれば百人すべてが浄土に往生することを説いています。なぜならば、念仏を称える者は、外からのさまざまな妨げがなく、正しい思いに至るからであると述べています。また、阿弥陀仏がすべてを救おうと誓われた本願のこころと一致しており、釈尊の教えそのものであって、仏の言葉にしたがっているからです。

 しかし、正行を捨てて雑行を修める者は、百人の中で一人か二人、あるいは千人の中で三人か五人、ごくまれにしか浄土に往生する者はいないと言われています。その理由を、善導大師は十三項目にわたって示しています。その十三項目とは、雑行は、

(1)外からのさまざまな妨げに乱されて、正しい心を失うからである。

(2)阿弥陀仏の本願に相応しないからである。

(3)釈尊の教えと相違するからである。

(4)仏の言葉にしたがっていないからである。

(5)浄土に想いをかけ続けられないからである。

(6)阿弥陀仏を思う心が途絶えるからである。

(7)浄土に往生したいと願う心が真実ではないからである。

(8)欲やいかり、誤った見方などから煩悩がおこってきて、それが消えることがないからである。

(9)自らを顧みることがなく、悔い改めることがないからである。

(10)阿弥陀仏の恩に報謝する思いがないからである。

(11)自ら思い高ぶり、他人をあなどって、名誉や利益を優先するからである。

(12)自己にとらわれて、同じく往生を願う者に対して親しみを持たず、近づかないからである。

(13)好んで阿弥陀仏とは関係のない方向へ向かい、自分だけではなく他人の往生も妨げるからである。

 これほどまで善導大師が雑行を捨てるべき理由を挙げている文を見た法然聖人は、「どうして百人は百人すべて漏れることがなく、浄土に往生することができる(百即百生)間違いのない専修正行(念仏)を捨てて、千人の中に一人も往生する者がいない(千中無一)雑修雑行に堅く執われてよいのであろうか」と述べ、私たちにこのことをよくよく考えるべきであると諭されています。このように法然聖人は「念仏往生」という確かな道を示し、われわれを導いてくださっているのです。

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