法然聖人とその門弟の教学 第25回

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法然聖人とその門弟の教学
第25回 「善導によらば」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、念仏以外のさまざまな行である諸行を棄てて、ただ念仏一行であるとする理由を、廃立・助正・傍正のそれぞれ三つの解釈が可能であると述べています。それぞれは別の解釈ですが、これら三義はいずれも共通して「一向念仏のため」であると主張しています。
 すなわち、初めの義の「廃立のために説く」とは、諸行は廃するために説かれ、念仏は立てるために説かれているという意味です。次の義の「助正のために説く」とは、正しく衆生の往生が決定する行業である念仏を助けるために諸行が説かれているという意味です。そして最後の義である「傍正のために説く」とは、念仏と諸行の二門を説くけれども、念仏を正とし、諸行を傍とするという意味です。
 このようなことから、廃立・助正・傍正の三義によって、『無量寿経』に説示されている上輩・中輩・下輩の三輩はいずれも共通して念仏を説いているということができるのです。これら三義の優劣については、法然聖人は知ることは難しいとし、「請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり」と、「どうか学ぶ人たちは、おのおのの心にしたがって取捨しなさい」と述べています。
ところが、このように述べつつも「善導によらば」という領解の基準を示しています。

いまもし善導によらば、初めをもつて正となすのみ。(『選択本願念仏集』三輩章)

 つまり、「いまもし善導大師に依ったならば、初めの廃立の義をもって正しい意味とする」と理解しているのです。このように『無量寿経』や『観無量寿経』などの経典を領解するには、さまざまに解釈することが可能ではありますが、法然聖人は何よりも善導大師の領解を最も重視し、善導大師に基づいてその理解としています。
 善導大師に基づいた理解とは、『選択本願念仏集』全体を通して貫かれた思想です。例えば、本願章では阿弥陀仏の本願(第十八願)を解釈するにあたって、善導大師の『観念法門』と『往生礼讃』に説かれている本願の文を引用し、念仏往生の願の意味を明確にしています。
また、特留章では、未来の世にさまざまな経典に説かれたさとりへの道が滅んだとしても、特に『無量寿経』は滅ぶことなく留められることを取り上げ、その理由を次のように述べています。
  もし善導和尚の意によらば、この経のなかにすでに弥陀如来の念仏往生の本願を説けり。(『選択本願念仏集』特留章)
すなわち、『無量寿経』には阿弥陀仏の「念仏往生の本願」(第十八願)が誓われているからであるとしています。このような見方は「善導和尚の意によらば」と、善導大師の理解に依ることを示しています。
 そして後述の文には、「偏依善導一師(偏に善導一師に依る)」と断言し、真の相承の師を「善導一師」と仰がれています。

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