法然聖人とその門弟の教学 第24回

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法然聖人とその門弟の教学
第24回 「傍正の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は念仏と諸行との関係を、廃立・助正・傍正の三義によって表しています。このうち第三の傍正の義では、念仏も諸行もそれぞれ上・中・下の三品の衆生に応じて説かれていることを示すために、諸行を説いていると解釈しています。上・中・下の三品とは、それぞれ『無量寿経』の上輩・中輩・下輩の三輩のことをいいます。
 まず念仏について三品を説いているとは、『無量寿経』の三輩はいずれも共通して「一向専念無量寿仏」(ただひたすらに阿弥陀仏を念じなさい)が説示されていることを意味しています。
 これについて法然聖人は『選択本願念仏集』三輩章に、源信和尚の『往生要集』大文第八(第八章)「念仏証拠門」から次の文を引用しています。

『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな「一向専念無量寿仏」といふ

 源信和尚の『往生要集』には、念仏が往生の因となる証拠として、十種の文を挙げていますが、法然聖人がここで引用しているのは、その十文のうちの第二に示されている文です。ここでいう『双巻経』とは、『無量寿経』のことです。また、双巻とは上下二巻を意味しています。この文は、「三輩往生それぞれの人の行業を説く中には、その行に浅い深いはあるけれどもすべてに共通して、一向専念無量寿仏が説示されています」という意味です。
 『往生要集』念仏証拠の十文には、この他に『無量寿経』第十八願文や『観無量寿経』下品下生の文の取意として示されている「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(極重悪人には、他に救われる道はない。ただ仏を念じて名を称えることによって、極楽に往生することができる)という文などを挙げています。
さらに法然聖人は、この源信和尚の『往生要集』念仏証拠の文は、懐感禅師の『群疑論』にも同じように説かれていると述べています。『往生要集』は、『群疑論』の教説を承けたものと考えられます。
 次に諸行についても三品を説いているとは、この上輩・中輩・下輩の三輩の中に共通してみな菩提心などの諸行が説示されていることをいいます。これは諸行について、三品に分類しているということです。これについても法然聖人は、『往生要集』大文第九(第九章)の「諸行往生門」に、「『双巻経』の三輩またこれを出でず」と述べられている文を引いています。この文は、「『無量寿経』の三輩もまたこれと同じである」という意味です。
 『往生要集』往生諸行では、往生浄土のためのさまざまな行業が明かされています。法然聖人が引用した文は、『観無量寿経』の九品往生それぞれの行業を示した後に表されています。九品とは、阿弥陀仏の浄土へ往生を願う衆生を、修めるべき行によって九種類に分類した階位をいいます。法然聖人の『選択本願念仏集』でもこの後、『無量寿経』の三輩と『観無量寿経』の九品との関係性を問題としています。

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