法然聖人とその門弟の教学 第22回

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法然聖人とその門弟の教学
第22回 「助正の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、『無量寿経』に念仏以外の行(余行・諸行)が説かれている理由をどのように解釈すべきか、という問題を設定し、これには三通りの解釈が可能であることを示されています。
三義のうち初めの「廃立」につづいて示される解釈は、念仏を助けるために諸行を説くという「助正」です。この解釈には、さらに二つの意味があると考えられています。
  一には同類の善根をもつて念仏を助成す。
  二には異類の善根をもつて念仏を助成す。(『選択本願念仏集』三輩章)
 この「同類の善根」とは、正定業である称名と同じ種類の善根をいいます。正定業とは、正しく衆生の往生が決定する行業、業因という意味です。これは善導大師の『観経疏』「散善義」の説に基づくものです。
 善導大師は、阿弥陀仏の浄土へ往生する行として、五種の正行(五正行)を挙げています。五正行とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養をいいます。そして第四の称名を正定業と規定し、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業と定められています。助業とは、称名の助となり伴となる行業という意味で、念仏を称えやすいよう助けとなる行となったり、読誦・観察・礼拝・讃歎供養を実践することによって、自然に念仏も称えられるようになったりすることから言われているものです。
 このような助業を、阿弥陀仏と関わりの深い行として、正定業と同じ種類の行であることから、「同類の善根」「同類の助成」といわれています。
これに対し、「異類の善根」とは前述した助業以外のさまざまな善根のことで、念仏を称えやすいよう助けとなる行をいいます。法然聖人は、この異類の助成とはどのような行を指して言うのかを、『無量寿経』三輩段に説かれている念仏以外の行によって明らかにしています。
 三輩段の上輩に説かれている「一向に専ら無量寿仏を念ず」ことは正行に当たりますが、「出家して欲を棄て沙門となって菩提心を発す」ことは「異類の善根」に相当します。法然聖人は、この出家や発心とは初めて行う行為であると規定される一方、念仏とは長く退転しないで修する行であるから、さまたげるはずはないと述べています。
 また、中輩の「寺院を建て、仏像を造り、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をする」などの諸行や下輩の「発心」などの行も「異類の善根」であるとされています。さらに、中輩の諸行とは、源信和尚の『往生要集』「助念方法」にも説かれていると述べられています。
 そして下輩には、菩提心を発す発心と念仏が説かれているとされています。
このように『無量寿経』三輩段に説かれている念仏以外の行を、「異類の善根」「異類の助成」といわれています。
 なお、法然聖人は「衣食住の三は念仏の助業なり。これすなはち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり」(『禅勝房伝説の詞』)とも説かれました。

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