法然聖人とその門弟の教学 第17回

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法然聖人とその門弟の教学
第17回 「善導大師の本願観」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は「念仏往生」を主張する根拠として、第十八願に「乃至十念」が誓われていることを強調しています。「乃至十念」を解釈するにあたっては、善導大師がこれを「下至十声」と示されたことに注目しました。法然聖人の『選択本願念仏集』には、このことを表すために、次の善導大師の『観念法門』と『往生礼讃』の文を引用しています。
 『観念法門』には、阿弥陀仏の本願とは、

  もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること
  下十声に至らんに、わが願力に乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ。

と、「わたしが仏になったとき、すべての世界の生きとし生けるものが、わたしの国に生れようと願って、わたしの名号を称えること、わずか十回ほどであっても、わたしの本願のはたらきによって往生することができなかったなら、わたしは決してさとりを開くことはありません」と誓われたものであるとしています。
 また、『往生礼讃』では、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と、『観念法門』とほぼ同じ文言を示した直後に、次の文をつづけています。

  かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、
  衆生称念すればかならず往生することを得。
 

 すなわち、「阿弥陀仏はいま現に世にいらっしゃって、仏と成っておられます。ですから、深く重ねて誓われた阿弥陀仏の本願とは、決して何のはたらきもないむなしいものではありません。私たちが称名念仏すれば、必ず浄土に往生することができると知るべきです」と述べています。
 このように阿弥陀仏の本願とは、遠い過去のものではなく、いま現に私たちにはたらいていることを示し、そしてその本願とは、願われた通りに成就しているからこそ、「念仏往生」を説くことができるのです。
 また、善導大師の本願観は、『観念法門』と『往生礼讃』の文だけではなく、『観経』を註釈した『観経疏』にも見ることができます。

  法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。
  一々の願にのたまはく、「もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に
  生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
  いますでに成仏したまへり。すなはちこれ酬因の身なり。(「玄義分」)


 この文は、『無量寿経』には「法蔵菩薩が世自在王仏のもとで菩薩道を行じられていたとき、四十八願をおこされました。四十八願はそれぞれの願に『わたしが仏になったとき、すべての世界の生きとし生けるものが、わたしの名号を称えてわたしの国に生れようと願い、わずか十回ほどの念仏であっても、わたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くことはありません』と誓われた、と説かれています。その法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏と成っておられます。これは誓願に報いてあらわれた仏身(報身)です」という意味です。
 このように善導大師は、阿弥陀仏の四十八願の一つひとつの願とは、第十八願の意を表したものであるとされ、四十八願の全体を「念仏往生」が誓われた願であると捉えているのです。さらに、すでに阿弥陀仏と成り、その浄土が成就していることも第十八願によって語られているのです。

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