法然聖人とその門弟の教学
第13回 「難易の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄
法然聖人における念仏の特徴は、「勝易具足」にあります。『選択本願念仏集』には、勝劣の義につづいて「難易の義」を示しています。
難易の義とは、念仏は修しやすく、諸行は修しがたし。(『選択本願念仏集』)
難易の義とは、念仏と諸行とを比較して、念仏は修め易く、諸行は修め難いと規定することをいいます。このことを証明する文として、法然聖人は善導大師の『往生礼讃』と源信和尚の『往生要集』を引用しています。
まず善導大師の『往生礼讃』では、われわれにはどのような念仏を勧められているのかを問題としています。つまり、観念ではなく、どうして称名念仏であるのか、という問いを設定しています。
観念とは、心を静かにして仏のすがたや功徳を観察し、思念することをいいます。しかし、観念の対象は細やかで、心を集中させなければならないのですが、われわれの心は粗雑で、うわついており、常に動揺していて、とても観念を成就することは難しいことです。そのため釈尊は、このようなわれわれを哀れんで、ただ専ら名号を称えることを勧められたのであると、この問いに対し、答えています。したがって、称名念仏は修め易いので、これを続けて(相続して)、往生することができることを述べています。
この『往生礼讃』の文を引用することによって、法然聖人はわれわれが実践可能であり、相続していくことのできる易行とは何かに焦点を当てつつ、われわれの心のありようを明らかにされています。
次に源信和尚の『往生要集』では、阿弥陀仏が本願に称名念仏を選択された意味を述べています。つまり、あらゆる善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どうして、ただ念仏の一門のみを勧められているのか、という問いを設定し、念仏を勧められる理由を、次のように答えています。
ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず
(『選択本願念仏集』、『往生要集』引文)
念仏を修めることは、男性でも女性でも、身分の高い人であっても、そうではない人であっても、歩くこと、とどまること、坐ること、臥すことのどのような生活をしていても、時間や場所、さまざまな条件を論じる必要はないから、難しくないといわれています。
このように『往生要集』から、念仏とは「いつでも、どこでも、だれでも」実践することができる易行であると説かれているのです。