法然聖人とその門弟の教学
第12回 「勝劣の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄
法然聖人の教えは「念仏往生」です。この念仏には勝易の二徳があることを明らかにされています。勝易二徳とは、念仏は勝れた行であり、しかも易しい行であるという二つの徳がそなわっていることをいいます。これは法然聖人が、仏のみ心を試みに思い測ってみたときに、念仏と念仏以外の行(余行、諸行)とを比較することによって導き出した解釈であり、それぞれ「勝劣の義」「難易の義」と表しています。この中、初めの勝劣の義を次のように述べています。
初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。
所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。(『選択本願念仏集』)
この文は、「初めに勝劣の義とは、念仏は勝れ、ほかの行は劣っています。なぜ念仏の一行が最も勝れた行であるのかというと、南無阿弥陀仏の名号にはあらゆる徳がおさまっているからです」という意味です。法然聖人は念仏が勝れている根拠を、「名号はこれ万徳の帰するところなり」と結論づけています。
このようにあらゆる功徳が阿弥陀仏の名号におさまっていることについて、法然聖人は阿弥陀仏の内にそなわっている功徳と外側に現れる功徳があることを説明しています。つまり、阿弥陀仏の内には、四智(大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の四種の智慧)・三身(法身、報身、応身の三種の仏身)・十力(処非処智力、業異熟智力、静慮解脱等持等至智力、根上下智力、種種勝解智力、種種界智力、遍趣行智力、宿住随念智力、死生智力、漏尽智力の十種の力)・四無畏(正等覚無所畏、漏永尽無所畏、説障道無所畏、説出道無所畏の四種の表現能力)などのさとりのすべての功徳が得られているといい、外側には相好(すぐれた容貌、形相)・光明・説法・利生(衆生を利益すること)などの功徳が現れているといいます。
このようにさとりの功徳のすべてが阿弥陀仏の名号の中におさまっているので、名号の功徳を最も勝れているといい、余行はそうではなく、それぞれ一部分の功徳だけであるから、劣っているというのです。
これについては、「屋舎のたとえ」によって、念仏と余行との関係を述べています。つまり、家(屋舎)は、棟・梁・椽・柱など家を構成するすべての材料を含んで完成しているけれども、棟・梁などは家の一部分を示したものです。これは名号を家に、余行を家の一部分にたとえたものです。この屋舎のたとえによって、名号はすべての功徳をおさめ完成しているけれども、余行は名号の一部分の功徳にすぎないということを明らかにしているのです。