法然聖人とその門弟の教学 第11回

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法然聖人とその門弟の教学
第11回 「聖意測りがたし」「仏意測りがたし」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は『無量寿経』によって、法蔵菩薩が建立した本願とは、粗悪なものを選捨して、善妙なものを選取したものであると述べています。では、どのような理由によって第十八願には、一切の諸行(ありとあらゆる行)を選捨して、ただひとえに念仏の一行のみを選取して、衆生の往生を誓う本願とされたのでしょうか。法然聖人はこのような問いを設けて、次のように答えています。

  聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。しかりといへどもいま試みに二の義を
  もつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。(『選択本願念仏集』)

 この文は、「仏のみ心を思い測ることは難しい。容易に解釈することはできないけれども、いま試みに二つの義によってこれを解釈してみると、勝劣の義と難易の義とがある」という意味です。法然聖人は、第十八願に誓われている念仏とそれ以外の諸行とを比較して、念仏には勝と易の二つの義があり、諸行には劣と難の義があることを示しています。ここでは念仏のみを取り上げて、念仏には勝と易の義があると言っているのではありません。あくまでも諸行と比べて、念仏とは勝れた行であり、易しい行であると指摘しています。
 また、「聖意測りがたし。しかりといへども」という表現は、親鸞聖人においても用いられています。

  仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、
  無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽
  にして真実の心なし。(『教行信証』「信巻」)

 これは『教行信証』「信巻」の三一問答とよばれている中に出てくる文です。三一問答とは、第十八願文の「至心・信楽・欲生」の三心と、天親菩薩が『浄土論』で表した「一心」との関係を明らかにするために設けられた問答をいいます。
 親鸞聖人は、法然聖人と同じく「仏意測りがたし、しかりといへども」と、如来のみ心は思い測ることは難しいとしながら、「ひそかにこの心を推するに」と、自ら如来の心をたずねています。このような態度は何を意味しているのでしょうか。法然聖人も親鸞聖人もその姿勢を謙虚であるという言葉で言い表すのみではすべてを語ったということにはならないでしょう。なぜならば「仏意測りがたし」とは、自らの器量やはからいによって仏意を掌握できるような如来の救済法ではないことを、仏意と向き合ってこそはじめて仏意そのものが知らされたからです。
 これによって、親鸞聖人は自身も含め、一切衆生には「はかり知れない昔から今日今時に至るまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、うそいつわり、へつらうばかりで真実の心がない」ことを明らかにしているのです。

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