法然聖人とその門弟の教学
第20回 「三輩念仏往生」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄
『無量寿経』巻下は、第十一願・第十七願・第十八願成就文が説かれた後、三輩往生の段がつづいています。三輩とは、浄土往生を願う修行者を、三種類に区別したものをいいます。三種類とは、上輩・中輩・下輩と名づけられて、それぞれ修行の内容によって分けられています。
上輩とは、家を捨て、欲を離れて修行者(沙門)となり、さとりを求める心(菩提心)をおこして、ただひたすらに(一向に専ら)阿弥陀仏(無量寿仏)を念じ、さまざまな功徳を積んで、阿弥陀仏の浄土に生れたいと願う者をいいます。これらの衆生が命を終えようとするとき、阿弥陀仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださいます。そして阿弥陀仏にしたがって浄土に往生すると、七つの宝でできた華の中からおのずと生れて不退転の位に至ります。智慧が大変すぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのです。
したがって、釈尊は阿難にこの世で阿弥陀仏を見たいと思うならば、菩提心をおこし功徳を積んで、阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うべきである、と説き勧めています。
次に中輩とは、上輩のように沙門となって大きな功徳を積むことができませんが、菩提心をおこして、一向に専ら阿弥陀仏を念じ、多少の善を修める者をいいます。多少の善とは、戒めを守り、堂塔を建て、仏像を造り、沙門に食物を供養したり、仏像の上部に天蓋をかけ、灯明を献じ、仏を供養したりすることをいいます。これらの功徳によって阿弥陀仏の浄土に生れたいと願う者が命を終えようとするとき、阿弥陀仏はその衆生を救うために、その衆生の性質や能力に応じてさまざまな姿をとった化身として現れてくださいます。この化身の仏にしたがって浄土に往生して、不退転の位に至ります。この功徳や智慧は上輩に次ぐものです。
そして下輩とは、さまざまな功徳を積むことができないとしても、菩提心をおこし、一向に心を一つにして、わずか十回ほどでも阿弥陀仏を念じて、浄土に生れたいと願う者をいいます。もし奥深い教えを聞いて歓喜して心から信じ、疑いの心をおこさずに、わずか一回でも阿弥陀仏を念じて、まことの心で浄土に生れたいと願うならば、命を終えようとするとき、夢に見るかのように阿弥陀仏を見たてまつり、浄土に往生することができます。この功徳や智慧は中輩に次ぐものです。
このように三輩往生の段には、念仏だけではなく、家を捨て、欲を離れることや堂塔を建て、仏像を造ることや菩提心などさまざまな行も説かれています。法然聖人はこれらの行を、念仏以外の行であるとして「余行」と呼び、なぜ『無量寿経』に余行が説かれているのに、「念仏往生」というのかを問題としています。
その答えとして、善導大師の解釈によって釈尊の説法の特徴について示しています。釈尊は衆生の素質や能力はそれぞれ異なっているから、上輩・中輩・下輩に分けて、それぞれの能力に応じた行として、阿弥陀仏の名を念じることを勧められたのであるとしています。この解釈によって、法然聖人は三輩ともに「念仏往生」を説いていると述べています。しかし、この解釈では余行を棄てる理由を示したわけではありませんでした。