法然聖人とその門弟の教学 第10回

法然聖人とその門弟の教学
第10回 「選択の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 『無量寿経』には、法蔵菩薩があらゆるものを救うための願を建てるにあたって、世自在王仏による説法が示されています。それは法蔵菩薩のために、「二百一十億のさまざまな仏の国々に住んでいる人・天の善悪と、国土の勝劣を説いて、法蔵菩薩の願いのとおりに、すべてをお見せになられた」ことでした。この世自在王仏の説法を聴聞した法蔵菩薩は、それら清らかな国土のありさまを詳しくじっくり見て、この上ないすぐれた願を発します。この願は、きわめて静かで、とらわれのない心によってなされたものであり、また五劫という長い間、思いをめぐらして、清らかな行を「摂取」したことによってはじめて成り立つものでした。

 法然聖人は『選択本願念仏集』に、この『無量寿経』の文を引用していますが、同時に『無量寿経』の異訳である『大阿弥陀経』のこの部分の文も引いています。

 ちなみに親鸞聖人は、この『無量寿経』の文に基づいて、『教行信証』「行巻」末の「正信念仏偈」に次のように述べています。

  法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
  建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方(「正信念仏偈」)

 ところで現存する<無量寿経>の漢訳は、全部で五本ありますが、そのうち『大阿弥陀経』は、『平等覚経』とともに翻訳年代が古い初期無量寿経に区分され、阿弥陀仏の本願が四十八願ではなく、二十四願の経典であることが特徴に挙げられます。

 法然聖人は『無量寿経』で使用されている「摂取」という言葉が、この『大阿弥陀経』では「選択」になっていることを指摘しています。そしてこの「選択」とは、

  このなか、「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。(『選択本願念仏集』)

と、定義づけを行っています。つまり、選択とは「選び取る」とともに「選び捨てる」という意味を兼ね備えた言葉であるのです。その上で、法然聖人は「選択」と「摂取」という言葉は異なるけれども、その意味は同じであるとし、選択とは、不清浄の行を捨てて(選捨)、清浄の行を取る(選取)ことであると述べています。取捨の基準は、あらゆるものが救われる行であるかどうか、にあります。

 これについて法然聖人は、法蔵菩薩のときに誓った阿弥陀仏の願とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜や孝養父母などの諸行を選捨して、専ら仏の名を称えるという「専称仏号」を選取したとして、これを選択であると説いています。

 したがって、法然聖人が主張する「選択」とは、私の選択ではなく、阿弥陀仏による選取・選捨です。それは阿弥陀仏が念仏以外の諸行を何も必要とはしていないということであり、往生のために必要となるのは、念仏のみ(ただ念仏)であるということだったのです。
 このように法然聖人は、選取と選捨の両方の意味が込められた言葉として、「選択」を使用しています。「選択」という言葉を用いながら、阿弥陀仏の本願の救いを明らかにされているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第9回

法然聖人とその門弟の教学
第9回 「総願と別願」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 浄土教の重要な用語に「本願」があります。本願とは、以前からの願いという意味で、菩薩が因位の時(さとりを開くために願を建てて修行している間)におこした衆生救済の誓いをいいます。また、衆生救済のためのまさしく根本となる願という意味でもあります。

 法然聖人はこの本願を考えるとき、総願と別願の二種があることをいいます。総願とは、すべての仏が菩薩の時におこす誓いのことで、「四弘誓願」がこれに当たります。四弘誓願とは、「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」という四つの広大な誓いのことです。源信和尚の『往生要集』にも述べられていますが、若干の異同があります。

 武蔵野大学では、週に一度大学礼拝を勤めていますが、そのときに、この四弘誓願の訳を教職員と学生が唱和するようにしています。その訳とは、「いきとし生けるものが幸せになるために(度) わたくしの「ひとりよがり」のこころをきよめ(断) 正しい道理をどこまでもきわめ(学) 生きがいのある楽しい平和の世界をうち立てたい(成)」(山田龍城訳)というものです。

 一方、別願とは、それぞれの仏・菩薩の独自の誓願のことをいい、これによってそれぞれの仏の性格が異なってきます。法然聖人は別願の代表例として、釈迦の五百の大願や薬師の十二の上願とともに、阿弥陀仏の四十八願を挙げています。この四十八願については、

  おほよそ四十八願みな本願なりといへども、殊に念仏をもつて往生の規となす。
                           (『選択本願念仏集』)

と、四十八願はすべて本願というけれども、念仏往生を規範とすることを述べています。念仏往生が誓われた願は、四十八願の中の第十八番目の願(第十八願)であり、これを根本の願として、「本願中の王」と名づけています。それと同時に、法然聖人は第十八願には念仏以外の行(余行)が誓われていないことを強調しています。

 ところで法然聖人は、阿弥陀仏がいつ、どの仏のもとで、本願をおこされたのかという問いを設け、『無量寿経』によって、その答えを導き出しています。ここで指摘しておかなければならないことは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、決して一人で発願し、修行したわけではなかったということです。

 『無量寿経』では、釈尊が阿難に対して、永遠なる過去において、錠光如来が世に出現して、数限りない人びとを教え導き、そのすべてのものにさとりを得させて、世を去られたことから説き始めています。錠光如来とは、釈尊の前生において、釈尊に対し未来に成仏すると予言した仏です。つまり、錠光如来から説き始めることで、釈尊の説法の根源を意味づけた表現となっていると考えられます。

 つづいて、錠光如来をはじめ五十三仏に次いで出現したのが世自在王仏であることが説き明かされます。この世自在王仏の説法を聞いて、心に悦予を懐き、この上ないさとりを求める心をおこしたある国王が、国も王位も捨てて出家修行者の身となり、名のった名前が「法蔵」でありました。

 ここから法蔵菩薩が発願したのは、世自在王仏の説法を聞くことによってなされたものであることがわかります。法蔵菩薩にとって、世自在王仏の存在なくしてはその発願も修行も成立しません。説法者である世自在王仏と聞法者としての法蔵菩薩の関係性が注目された記述となっているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第8回

法然聖人とその門弟の教学
第8回 「百即百生と千中無一」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人が雑行を捨てて、正行を専ら修めるべきことを主張されたのは善導大師の文に基づいています。その文とは、善導大師の『観無量寿経』の見方が示されている『観経疏』と、浄土に往生したいと願う者の実践が説き述べられた『往生礼讃』の文です。

 『往生礼讃』には、生涯にわたって念仏を称える者は、十人いれば十人すべてが浄土に往生し、百人いれば百人すべてが浄土に往生することを説いています。なぜならば、念仏を称える者は、外からのさまざまな妨げがなく、正しい思いに至るからであると述べています。また、阿弥陀仏がすべてを救おうと誓われた本願のこころと一致しており、釈尊の教えそのものであって、仏の言葉にしたがっているからです。

 しかし、正行を捨てて雑行を修める者は、百人の中で一人か二人、あるいは千人の中で三人か五人、ごくまれにしか浄土に往生する者はいないと言われています。その理由を、善導大師は十三項目にわたって示しています。その十三項目とは、雑行は、

(1)外からのさまざまな妨げに乱されて、正しい心を失うからである。

(2)阿弥陀仏の本願に相応しないからである。

(3)釈尊の教えと相違するからである。

(4)仏の言葉にしたがっていないからである。

(5)浄土に想いをかけ続けられないからである。

(6)阿弥陀仏を思う心が途絶えるからである。

(7)浄土に往生したいと願う心が真実ではないからである。

(8)欲やいかり、誤った見方などから煩悩がおこってきて、それが消えることがないからである。

(9)自らを顧みることがなく、悔い改めることがないからである。

(10)阿弥陀仏の恩に報謝する思いがないからである。

(11)自ら思い高ぶり、他人をあなどって、名誉や利益を優先するからである。

(12)自己にとらわれて、同じく往生を願う者に対して親しみを持たず、近づかないからである。

(13)好んで阿弥陀仏とは関係のない方向へ向かい、自分だけではなく他人の往生も妨げるからである。

 これほどまで善導大師が雑行を捨てるべき理由を挙げている文を見た法然聖人は、「どうして百人は百人すべて漏れることがなく、浄土に往生することができる(百即百生)間違いのない専修正行(念仏)を捨てて、千人の中に一人も往生する者がいない(千中無一)雑修雑行に堅く執われてよいのであろうか」と述べ、私たちにこのことをよくよく考えるべきであると諭されています。このように法然聖人は「念仏往生」という確かな道を示し、われわれを導いてくださっているのです。

法然聖人とその門弟の教学 第7回

法然聖人とその門弟の教学
第7回 「善導大師の六字釈」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 「南無阿弥陀仏」の六字について解釈することを六字釈といいます。中国浄土教の大成者である善導大師は、南無阿弥陀仏について「南無」と「阿弥陀仏」とに分け、「南無」とは「帰命」「発願回向」であり、「阿弥陀仏」とは「即是其行」であると解釈されました。
 南無阿弥陀仏の南無は梵語の音写語で、中国語では帰命と訳されます。帰命とは、心から信じ敬うという意味です。また、発願回向とは、浄土往生の願いを発して回向することをいいます。そして、善導大師が阿弥陀仏とは、「すなはちこれその行なり(即是其行)」と解釈されたのは、阿弥陀仏そのものの行を表したものだからです。つまり、阿弥陀仏は単なる仏名だけではなく、衆生を浄土に往生させるはたらきを意味しているのです。
 このように善導大師は、南無阿弥陀仏の六字には、衆生が浄土に往生するために必要な願と行とが具わっていることを主張されました。衆生が往生のために必要な願と行とが具わっていることを、「願行具足」といいます。
 善導大師が願行具足の念仏を主張された背景には、摂論宗の学者による別時意(別時意趣)の批判がありました。別時意とは、無着菩薩の『摂大乗論』に説かれた仏の方便説の一つで、長い間修行を積み重ねていかなければ往生を得ることができないのに、わずかな善根によって、すぐに往生ができるかのように説くことをいいます。つまり、遠い未来の別時に得る結果を、即時に得られるかのように説くことから別時意というのです。
 この『摂大乗論』の別時意説を、摂論宗の学者は『観無量寿経』下品下生に説かれている念仏往生の教えに適用させ、この念仏を別時意であるとし、すぐに往生できるような行ではないとしました。したがって、念仏には往生しようとする願はあるけれども、すぐに往生できる行ではない(唯願無行)と主張したのです。これに対して反論した教説が、善導大師の六字釈でした。
 この善導大師の六字釈に注目し、引用されたのが法然聖人です。法然聖人が引用された意図とは、願行具足を言うのではなく、六字釈を通して、念仏とは「不回向」の行であることを論証しようとすることにありました。雑行は特別に回向しなければ往生の行にはならないけれども、念仏は阿弥陀仏の本願の行(阿弥陀仏そのものの行)であるから、衆生が回向する必要はなく、自然に往生の業となることを述べるために、六字釈を引用されたのです。なぜならば、「南無阿弥陀仏」の六字の名号そのものに、回向のはたらきがあるからです。これを衆生の側から見て、「不回向」というのです。

法然聖人とその門弟の教学 第6回

法然聖人とその門弟の教学
第6回 「不回向と回向」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄 

 法然聖人は、「正行(正定業と助業)を修めると、阿弥陀仏と親しくなり、阿弥陀仏は近くに来ておられ、阿弥陀仏への思いはとぎれず、往生のために回向する必要がなく、専修の行であるから純である」と述べられています。この中の「往生のために回向する必要がない」とは、どのような意味でしょうか。
 回向とは自ら修めた善根功徳を、自らのさとりのためにふりむけたり、他者を救うために施し与えたりすることをいいます。この回向が必要ないというのです。それはなぜでしょうか。法然聖人は、不回向と回向とを比較して、次のように述べられています。

  不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども
  自然に往生の業となる。(『選択本願念仏集』)

 この文は、「正定業である称名と助業との二つの行業を含む正行を修める者は、たとい特別に往生のためにその行をふりむけようとしなくても、おのずから正行が往生の業となる」という意味です。正行とは阿弥陀仏と関わりのある行をいいました。いかに阿弥陀仏の本願のはたらき(他力)が強調されているかがわかります。
 阿弥陀仏の本願(第十八願)に衆生が往生するための行として誓われているのは、称名念仏の一行です。つまり称名念仏とは、すでに阿弥陀仏の本願によって往生の行として選び定められたものですから、称名することでそのまま往生の業となり、衆生の側からは往生のために回向する必要はないということになります。このことを「不回向」というのです。
 この不回向の義と弥陀回向の義とを同義として受け継がれているのが親鸞聖人です。

  聖言・論説、ことに用ゐて知んぬ、凡夫回向の行にあらず、
  これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。(『浄土文類聚鈔』)

  真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば
    不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(『正像末和讃』)

 このように親鸞聖人は称名念仏を、「釈尊の言葉や祖師の論書によって、凡夫は自らの力で善根を修め、さとりを開こうとするのではなく、阿弥陀仏の大いなる慈悲から回向された行(弥陀回向の法)である」として、この阿弥陀仏からの回向を「不回向という」と述べられています。
 ただし法然聖人は、「雑行を修するものは、かならず回向を用ゐる時に往生の因となる」とも述べており、雑行を回向の行であると捉えられています。

神奈川と親鸞 前編73回

神奈川と親鸞 第七十三回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
三浦市白石の最福寺

 三浦市白石の最福寺は、寺伝によれば、もと鎌倉に建てられたと伝えられている。寺の開基は桑田永教という人物で京都丹波出身であった。幼い時に比叡山延暦寺で出家した。その後、比叡山での修行を終えてから鎌倉に移った。それは建久年間(1190〜1199)のことだったという。寛喜2年(1230)には天台宗の寺院を建立し、さらにその後に親鸞の門に入ったと伝えられている。その寺院の名称は不明である。
 戦国時代の天文元年(1532)、寺は戦乱の中で鎌倉から三浦半島南部の西の浜に移り、西福寺と称するようになった。
 江戸時代になると漁業に従事する人たちの人口が急激に増えたので、漁港近くにあった西福寺は移転せざるを得なくなった。その結果、現在の三浦市白石の地に移った。元禄10年(1697)のことであった。寺名も最福寺と改めて現在に至っている。
 上述のように西福寺はもと鎌倉にあった。しかし考えてみると、浄土真宗の歴史では親鸞と鎌倉との親しさを示す話は避けられてきた。特に、親鸞が幕府の執権北条泰時に一切経校合を依頼され、引き受けた話は無視されてきた。それは覚如の作り話だろうというわけである。民衆の味方親鸞は権力者に協力するはずはないという意識が、つい近年まで底流にあった。民衆の味方親鸞は権力者と戦ったはずだというのである。
 しかし、歴史を民衆と権力者の戦いと見る考え方はすでに過去のものとなった。そもそも親鸞が信奉した阿弥陀如来は、その慈悲によりすべての人々を救うはずである。権力者はその救いから漏れるのであろうか? 親鸞自身、越後流罪では「権力者」の越後権介日野宗業に助けられ、関東の稲田では「権力者」の大豪族宇都宮頼綱の保護を受けていたのである。そろそろ鎌倉そして神奈川県の浄土真宗史を本格的に見直すべきであろう。
 最福寺は100段以上の階段を上った所にある。一歩一歩登っていくのは大変であるが、気持がよく、景色のよい境内である。

 

法然聖人とその門弟の教学 第5回

法然聖人とその門弟の教学
第5回 「正雑二行の得失」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、阿弥陀仏と関わりのない雑行と、阿弥陀仏とその浄土を対象とする往生行である正行とを五項目にわたって対比して、なぜ正行がすぐれているのか(得)、なぜ雑行が劣っているのか(失)を論じています。
 その五項目とは、(1)親疎対、(2)近遠対、(3)有間無間対、(4)回向不回向対、(5)純雑対です。この中、正行は親・近・無間・不回向・純であり、雑行は疎・遠・有間・回向・雑が相当します。
 つまり、正行を修める者とは、阿弥陀仏と親しく、阿弥陀仏がその者の近くに来ておられ、阿弥陀仏に対する思いが間隙すること無く、往生のために回向する必要も無く、専修の行であるから純一であるということです。
 それに対し、雑行を修める者とは、阿弥陀仏と関わりのない行を実践しますから、阿弥陀仏と疎く、阿弥陀仏はその者の遠くにあり、阿弥陀仏に対する思いは途切れ、往生のために回向する必要があって、雑多であることが示されています。
 なぜ正行を修める者が、阿弥陀仏と親しい関係にあると言えるのでしょうか。法然聖人はその根拠を、善導大師の次の文に求められています。
  
  衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。
  身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。
  心つねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。
  衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまふ。
  彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく。(『観経疏』「定善義」)

 この文は、「衆生が行を起して、いつも口に阿弥陀仏の名を称えるならば、阿弥陀仏は衆生の称名を聞いておられます。いつも身に阿弥陀仏を敬い礼拝するならば、阿弥陀仏は衆生の礼拝を見ておられます。いつも心に阿弥陀仏を念ずるならば、阿弥陀仏は衆生の念を知っておられます。衆生が阿弥陀仏を思い続けるならば、阿弥陀仏もまた衆生を思い続けられます。ですから、阿弥陀仏(彼)の三業(身・口・意)と衆生(此)の三業とは、互いに離れることがありませんので、親しい関係(親縁)であるといいます」と述べられています。
 つまり、衆生が阿弥陀仏を称・礼・念すれば、阿弥陀仏は衆生を聞・見・知されることから、常に念仏者と阿弥陀仏は互いに離れることがない親しい関係であるのです。
 ここで注目すべき点は、この文が「衆生行を起して」から始まっていることです。行の起点が衆生にあり、衆生が念仏を称えることによって、阿弥陀仏がその衆生を救うという構造になっています。
 ところが、念仏とは阿弥陀仏から恵まれる行であると見られた親鸞聖人は、この文を引用されていません。

神奈川と親鸞 前編72回

神奈川と親鸞 第七十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
厚木市上落合の長徳寺

阿弥陀如来立像。厚木市上落合・長徳寺


 厚木市上落合の長徳寺は、同じく厚木市の岡田の長徳寺と同名です。今回取り上げた上落合の長徳寺のそもそもの成立については、よく分かっていません。寺伝ではもと真言宗の寺院であったとされています。その後、住職が西香という僧侶であったころ、親鸞に帰依して浄土真宗の寺院になったといいます。それは寛喜二年(1230)であったとされています。この年は親鸞は58歳で、記録に残っている限り、法兄聖覚の『唯信抄』を初めて書写した年です。また後世に寛喜の大飢饉と呼ばれた大変な飢饉のあった年でもあります。この大飢饉は、前後3年は続いた大災害でした。
 長徳寺のその後の展開は明らかではありません。しかし戦国時代末期の天正19年(1591)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすために大軍をもって攻め寄せて来た時、長徳寺に禁制を与えて保護したことが分かっています。その禁制の内容は、軍勢が長徳寺で乱暴狼藉をすること・長徳寺に放火をすること・長徳寺に勝手な要求をすることを禁止する、などでした。「禁制」とは寺社などの保護・統制を目的として、権力者が禁止事項を書いたものです。寺社の門前などに木札などで書かれて示されることが多くありました。
 また文禄元年(1592)11月の本願寺顕如の没にあたって、長徳寺は銀子4匁5分5厘を献上しています。翌年正月6日、本願寺の坊官下間頼廉は「顕如様往生の志として銀子四匁五分五りん、進上の通り懇ろに申し上げ候。則ち御印書を成され候(顕如の後を継いだ教如が、その印を押した礼状を書かれました)」と丁寧な手紙を送ってきています。長徳寺は有力寺院だったのです。
 ところで長徳寺の本尊阿弥陀如来立像は、放射状の光背を背負う浄土真宗形式の阿弥陀像で、寄木造・像高63センチです。戦国時代の天文4年(1535)に小田原北条氏の家臣であった藤田氏が造立したものです。本年(2017)1月、厚木市の文化財に指定されました。

法然聖人とその門弟の教学 第4回

法然聖人とその門弟の教学
第4回 「正行と雑行」「正定業と助業」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人における行は、善導大師に基づいています。善導大師は、行にはさまざまあるけれども、大きく二つに分けることができるとされています。二つの行とは、正行と雑行です。これを受けて、法然聖人は「雑行を捨てて正行に帰す」ことを説かれました。
 正行とは、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することが説かれた経典に示されている行のことをいいます。つまり、阿弥陀仏に関わりのある行のことです。浄土往生が説き明かされた経典とは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』です。この三つの経典は、法然聖人によって「浄土三部経」と名づけられました。
 これらの経典を一心に読むこと(読誦)、一心に阿弥陀仏と浄土を心に思い浮かべ見ること(観察)、一心に阿弥陀仏を礼すること(礼拝)、一心に阿弥陀仏の名を称えること(称名)、一心に阿弥陀仏の徳をほめたたえ、供養すること(讃歎供養)の五種類の行を正行といいます。
 正行はさらに二種類に分けることができます。正定業と助業です。五種の正行の中、第四番目の称名のみを正定業といい、ほかの読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業と位置づけています。正定業とは、正しく衆生(生きとし生けるものすべて)の往生が決定する行業、業因という意味です。称名が正定業である根拠は、阿弥陀仏の本願(第十八願)に往生の行として誓われているのは、ただ称名念仏一行であるからです。また、助業とは、称名をしやすくするよう助けとなる行であり、称名によって伴ってくる行であるという意味です。
 一方、雑行とは、五種の正行以外のすべての行をいいます。雑行は数え切れないほどのさまざまな行がありますが、いずれも阿弥陀仏とは関わりのない行です。善導大師は正行以外のあらゆる善を雑行とされましたが、さらに法然聖人はこの雑行が何を指しているのかを具体的に述べられました。読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の正行に対して、読誦雑行・観察雑行・礼拝雑行・称名雑行・讃歎供養雑行を挙げています。つまり、浄土三部経以外の経典を往生の行として読むことを雑行とされ、阿弥陀仏以外の仏を礼拝したり、称名したりすることを雑行とされたのです。このように法然聖人は捨てるべき雑行を明らかにすることによって、帰すべき阿弥陀仏の浄土に往生する行とは何かを明確化されたのです。
 浄土真宗で『般若心経』を読まないのは、『般若心経』に阿弥陀仏の本願の救いが説かれていないからです。法然聖人を受け継いだ親鸞聖人の教えであると理解することができます。

法然聖人とその門弟の教学 第3回

法然聖人とその門弟の教学
第3回 「順彼仏願故」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 念仏といえば、「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏を連想しますが、文字通りに解釈すると、仏のすがた(相好)やはたらき(功徳)を心に思い描くという「心念」であり、それがもともとの意味であったと考えられます。
 仏教の辞典を開いてみても、「念仏」の意味は、「①仏を憶念すること。仏の功徳や相を心におもい浮かべること。観念の念仏。②六念(仏・法・僧・戒・施・天の六つを、それぞれ心静かに念ずること)の一つ」とあって、最後に「③「南無阿弥陀仏」と六字の名号を口に称えること。称名念仏」と説明されています(中村元『佛教大辞典』、東京書籍)。
 ところが、法然聖人の念仏とは、観念の念仏ではなく、ただ口に阿弥陀仏の名号を称えるという「称名念仏」の一行です。「ただ念仏」に帰結する過程を考えてみますと、まず法然聖人が多大の関心を寄せたのが、比叡山で浄土教を説かれた源信和尚(恵心僧都)の『往生要集』でした。
 『往生要集』の念仏は、世親(天親)菩薩の五念門であり、浄土に往生したいという心を起こして、心を浄土に専注し、阿弥陀仏のすがたを思い浮かべる行が中心です。そのため『往生要集』には、阿弥陀仏のすがたを観念する能力のない者に対して、はじめて称名念仏が説かれます。法然聖人が重視されたのは、この心を集中することができない凡夫にとって実践可能な行でした。そこで『往生要集』に引用されていた、中国唐の善導大師の文に注目されていかれました。
 法然聖人は、一切経(仏教のすべての経典)をご覧になるたびに、善導大師の文を注意して読まれること三度、ついに心が乱れる凡夫が念仏を称えれば、浄土に必ず往生できるという確信を得たのです。その善導大師の文とは、

  一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、
  これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故なり。(『観経疏』「散善義」)

でありました。この文は、「心を一つにしてひたすら阿弥陀仏の名号を称え、歩いているときも、とどまっているときも、座っているときも、臥しているときも、時間の長短に関わらず、常に忘れずに続けてやめないことを、正しく衆生の往生が決定する行であるといいます。なぜならば、それは阿弥陀仏の本願にしたがっているからです」という意味です。
 法然聖人は、この文を「ふかく魂にそみ、心にとどめ」られていますが、それは称名念仏が、阿弥陀仏のすべてを救おうという願いにかなった行にほかならなかったからです。