法然聖人とその門弟の教学 第6回

法然聖人とその門弟の教学
第6回 「不回向と回向」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄 

 法然聖人は、「正行(正定業と助業)を修めると、阿弥陀仏と親しくなり、阿弥陀仏は近くに来ておられ、阿弥陀仏への思いはとぎれず、往生のために回向する必要がなく、専修の行であるから純である」と述べられています。この中の「往生のために回向する必要がない」とは、どのような意味でしょうか。
 回向とは自ら修めた善根功徳を、自らのさとりのためにふりむけたり、他者を救うために施し与えたりすることをいいます。この回向が必要ないというのです。それはなぜでしょうか。法然聖人は、不回向と回向とを比較して、次のように述べられています。

  不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども
  自然に往生の業となる。(『選択本願念仏集』)

 この文は、「正定業である称名と助業との二つの行業を含む正行を修める者は、たとい特別に往生のためにその行をふりむけようとしなくても、おのずから正行が往生の業となる」という意味です。正行とは阿弥陀仏と関わりのある行をいいました。いかに阿弥陀仏の本願のはたらき(他力)が強調されているかがわかります。
 阿弥陀仏の本願(第十八願)に衆生が往生するための行として誓われているのは、称名念仏の一行です。つまり称名念仏とは、すでに阿弥陀仏の本願によって往生の行として選び定められたものですから、称名することでそのまま往生の業となり、衆生の側からは往生のために回向する必要はないということになります。このことを「不回向」というのです。
 この不回向の義と弥陀回向の義とを同義として受け継がれているのが親鸞聖人です。

  聖言・論説、ことに用ゐて知んぬ、凡夫回向の行にあらず、
  これ大悲回向の行なるがゆゑに不回向と名づく。(『浄土文類聚鈔』)

  真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば
    不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(『正像末和讃』)

 このように親鸞聖人は称名念仏を、「釈尊の言葉や祖師の論書によって、凡夫は自らの力で善根を修め、さとりを開こうとするのではなく、阿弥陀仏の大いなる慈悲から回向された行(弥陀回向の法)である」として、この阿弥陀仏からの回向を「不回向という」と述べられています。
 ただし法然聖人は、「雑行を修するものは、かならず回向を用ゐる時に往生の因となる」とも述べており、雑行を回向の行であると捉えられています。

法然聖人とその門弟の教学 第5回

法然聖人とその門弟の教学
第5回 「正雑二行の得失」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、阿弥陀仏と関わりのない雑行と、阿弥陀仏とその浄土を対象とする往生行である正行とを五項目にわたって対比して、なぜ正行がすぐれているのか(得)、なぜ雑行が劣っているのか(失)を論じています。
 その五項目とは、(1)親疎対、(2)近遠対、(3)有間無間対、(4)回向不回向対、(5)純雑対です。この中、正行は親・近・無間・不回向・純であり、雑行は疎・遠・有間・回向・雑が相当します。
 つまり、正行を修める者とは、阿弥陀仏と親しく、阿弥陀仏がその者の近くに来ておられ、阿弥陀仏に対する思いが間隙すること無く、往生のために回向する必要も無く、専修の行であるから純一であるということです。
 それに対し、雑行を修める者とは、阿弥陀仏と関わりのない行を実践しますから、阿弥陀仏と疎く、阿弥陀仏はその者の遠くにあり、阿弥陀仏に対する思いは途切れ、往生のために回向する必要があって、雑多であることが示されています。
 なぜ正行を修める者が、阿弥陀仏と親しい関係にあると言えるのでしょうか。法然聖人はその根拠を、善導大師の次の文に求められています。
  
  衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。
  身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。
  心つねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。
  衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまふ。
  彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく。(『観経疏』「定善義」)

 この文は、「衆生が行を起して、いつも口に阿弥陀仏の名を称えるならば、阿弥陀仏は衆生の称名を聞いておられます。いつも身に阿弥陀仏を敬い礼拝するならば、阿弥陀仏は衆生の礼拝を見ておられます。いつも心に阿弥陀仏を念ずるならば、阿弥陀仏は衆生の念を知っておられます。衆生が阿弥陀仏を思い続けるならば、阿弥陀仏もまた衆生を思い続けられます。ですから、阿弥陀仏(彼)の三業(身・口・意)と衆生(此)の三業とは、互いに離れることがありませんので、親しい関係(親縁)であるといいます」と述べられています。
 つまり、衆生が阿弥陀仏を称・礼・念すれば、阿弥陀仏は衆生を聞・見・知されることから、常に念仏者と阿弥陀仏は互いに離れることがない親しい関係であるのです。
 ここで注目すべき点は、この文が「衆生行を起して」から始まっていることです。行の起点が衆生にあり、衆生が念仏を称えることによって、阿弥陀仏がその衆生を救うという構造になっています。
 ところが、念仏とは阿弥陀仏から恵まれる行であると見られた親鸞聖人は、この文を引用されていません。

法然聖人とその門弟の教学 第4回

法然聖人とその門弟の教学
第4回 「正行と雑行」「正定業と助業」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人における行は、善導大師に基づいています。善導大師は、行にはさまざまあるけれども、大きく二つに分けることができるとされています。二つの行とは、正行と雑行です。これを受けて、法然聖人は「雑行を捨てて正行に帰す」ことを説かれました。
 正行とは、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することが説かれた経典に示されている行のことをいいます。つまり、阿弥陀仏に関わりのある行のことです。浄土往生が説き明かされた経典とは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』です。この三つの経典は、法然聖人によって「浄土三部経」と名づけられました。
 これらの経典を一心に読むこと(読誦)、一心に阿弥陀仏と浄土を心に思い浮かべ見ること(観察)、一心に阿弥陀仏を礼すること(礼拝)、一心に阿弥陀仏の名を称えること(称名)、一心に阿弥陀仏の徳をほめたたえ、供養すること(讃歎供養)の五種類の行を正行といいます。
 正行はさらに二種類に分けることができます。正定業と助業です。五種の正行の中、第四番目の称名のみを正定業といい、ほかの読誦・観察・礼拝・讃歎供養を助業と位置づけています。正定業とは、正しく衆生(生きとし生けるものすべて)の往生が決定する行業、業因という意味です。称名が正定業である根拠は、阿弥陀仏の本願(第十八願)に往生の行として誓われているのは、ただ称名念仏一行であるからです。また、助業とは、称名をしやすくするよう助けとなる行であり、称名によって伴ってくる行であるという意味です。
 一方、雑行とは、五種の正行以外のすべての行をいいます。雑行は数え切れないほどのさまざまな行がありますが、いずれも阿弥陀仏とは関わりのない行です。善導大師は正行以外のあらゆる善を雑行とされましたが、さらに法然聖人はこの雑行が何を指しているのかを具体的に述べられました。読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養の正行に対して、読誦雑行・観察雑行・礼拝雑行・称名雑行・讃歎供養雑行を挙げています。つまり、浄土三部経以外の経典を往生の行として読むことを雑行とされ、阿弥陀仏以外の仏を礼拝したり、称名したりすることを雑行とされたのです。このように法然聖人は捨てるべき雑行を明らかにすることによって、帰すべき阿弥陀仏の浄土に往生する行とは何かを明確化されたのです。
 浄土真宗で『般若心経』を読まないのは、『般若心経』に阿弥陀仏の本願の救いが説かれていないからです。法然聖人を受け継いだ親鸞聖人の教えであると理解することができます。

法然聖人とその門弟の教学 第3回

法然聖人とその門弟の教学
第3回 「順彼仏願故」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 念仏といえば、「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏を連想しますが、文字通りに解釈すると、仏のすがた(相好)やはたらき(功徳)を心に思い描くという「心念」であり、それがもともとの意味であったと考えられます。
 仏教の辞典を開いてみても、「念仏」の意味は、「①仏を憶念すること。仏の功徳や相を心におもい浮かべること。観念の念仏。②六念(仏・法・僧・戒・施・天の六つを、それぞれ心静かに念ずること)の一つ」とあって、最後に「③「南無阿弥陀仏」と六字の名号を口に称えること。称名念仏」と説明されています(中村元『佛教大辞典』、東京書籍)。
 ところが、法然聖人の念仏とは、観念の念仏ではなく、ただ口に阿弥陀仏の名号を称えるという「称名念仏」の一行です。「ただ念仏」に帰結する過程を考えてみますと、まず法然聖人が多大の関心を寄せたのが、比叡山で浄土教を説かれた源信和尚(恵心僧都)の『往生要集』でした。
 『往生要集』の念仏は、世親(天親)菩薩の五念門であり、浄土に往生したいという心を起こして、心を浄土に専注し、阿弥陀仏のすがたを思い浮かべる行が中心です。そのため『往生要集』には、阿弥陀仏のすがたを観念する能力のない者に対して、はじめて称名念仏が説かれます。法然聖人が重視されたのは、この心を集中することができない凡夫にとって実践可能な行でした。そこで『往生要集』に引用されていた、中国唐の善導大師の文に注目されていかれました。
 法然聖人は、一切経(仏教のすべての経典)をご覧になるたびに、善導大師の文を注意して読まれること三度、ついに心が乱れる凡夫が念仏を称えれば、浄土に必ず往生できるという確信を得たのです。その善導大師の文とは、

  一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、
  これを正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故なり。(『観経疏』「散善義」)

でありました。この文は、「心を一つにしてひたすら阿弥陀仏の名号を称え、歩いているときも、とどまっているときも、座っているときも、臥しているときも、時間の長短に関わらず、常に忘れずに続けてやめないことを、正しく衆生の往生が決定する行であるといいます。なぜならば、それは阿弥陀仏の本願にしたがっているからです」という意味です。
 法然聖人は、この文を「ふかく魂にそみ、心にとどめ」られていますが、それは称名念仏が、阿弥陀仏のすべてを救おうという願いにかなった行にほかならなかったからです。

法然聖人とその門弟の教学 第2回

法然聖人とその門弟の教学
第2回 「三学非器」「いづれの行もおよびがたき身」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 仏教の修行方法を簡潔にまとめられたものに三学があります。三学とは、戒(戒めを守る)・定(精神統一をする)・慧(智慧を身につける)をいいます。戒を守ることによって、定ができるようになり、定によって真実を見きわめる智慧を身につけていく修行のことです。
 ところが、法然聖人はこのような修行を積み重ねていっても仏に成ることができない現実を悲しまれています。

  かなしきかな、かなしきかな。いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときは
  すでに戒定慧の三学の器にあらず。(『法然上人行状絵図』)

 この文には、法然聖人が比叡山で修行されていた中で悩み続けられた思いが告白されています。法然聖人は、自身のみならず「我等」が「すでに」三学という、仏教の基本的な修行を究める器量を持ちあわせていないことを悲歎されています。「我等」という言葉には、阿弥陀仏からのまなざしに照らされた凡夫のすがたが、そして「すでに」という言葉からは、今がいかなる時代であるのかを自覚されています。法然聖人は、このような戒・定・慧がない三学非器の者にふさわしい教えとして、念仏を勧められたのです。
 この法然聖人の教えを受け継いだ親鸞聖人もまた同じような自覚をされています。

  いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(『歎異抄』)

 親鸞聖人は、「どのような修行も満足には修めることのできないものであるから、どうあっても地獄は私の定められた住み家なのです」と語っています。この文は、「ただ念仏」をお勧めくださった法然聖人の説法を全身に受け止め、絶対的な信頼から発せられた言葉です。なぜならば、親鸞聖人にとって阿弥陀仏の本願以外に自身が救われる道を見出せなかったからです。「いづれの行もおよびがたき身」であると自覚されてこそ、「弥陀の誓願不思議」が知らされてくるのです。

法然聖人とその門弟の教学 第1回

法然聖人とその門弟の教学
第1回 「愚癡にかえりて」「愚者になりて」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 仏教とは、「仏の教え」をいいます。仏(ブッダ)とは、「真実に目覚めた者」のことです。また、仏の教えを聞いた者は、真実に目覚め、仏に成る道が説かれますから、仏教とは「仏に成る教え」をいいます。
 法然聖人は「仏に成る」には、二つの道があると説かれています。一つは聖道門であり、もう一つは浄土門です。

  聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、
  浄土門の修行は、愚癡にかえりて極楽にうまる。(『浄土宗大意』)

 聖道門とは、すべてのものの真実の姿を明らかにする智慧を究めることによって、この生死である迷いの世界を離れる教えをいいます。一方、浄土門とは、真実に暗い愚かな身であることに気づいて、極楽浄土に生まれる教えをいいます。これは「智慧を究めて生死を離れる」聖道門の修行と対比しながら、「愚癡にかえりて極楽に生まれる」という浄土門の行である念仏のはたらきについて説かれたものです。「智慧をきわめて」と「愚癡にかえりて」とでは、仏に成る方向性が全く異なります。
 この法然聖人の「愚癡にかえりて極楽にうまる」という言葉は、その門弟である親鸞聖人の著述の中にも見ることができます。

  故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひし(『親鸞聖人御消息』)

 親鸞聖人は、いまは亡くなられた法然聖人が、「浄土の教えに生きる人は、わが身の愚かさに気づいて往生するのである」と仰せになっていたと語っています。
 では、「愚癡にかえりて」「愚者になりて」とはどのような状態をいうのでしょうか。「かへりて」「なりて」とは、決して「このままでよい」と言っているわけではありません。「愚者が往生する」ではなく、「愚者になりて往生する」というお言葉だからです。また、他人と比較して私は愚者であると言おうとしているわけでもありません。
 これは私という存在自体が問われるあり方の中で、その根本が自覚されていくということであり、私は愚者であるとしか言いようがない存在であると知らされることです。つまり、愚者と知らなかった者が、愚者であることに気づかされたという表現であり、それは「ただ念仏」によって自覚されてくるのです。