神奈川と親鸞 前編62回

このエントリーをはてなブックマークに追加

神奈川と親鸞 第六十二回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴
親鸞と善鸞⑺─現代社会の観点から─

親鸞(左)と善鸞。『慕帰絵』より。西本願寺蔵

親鸞(左)と善鸞。『慕帰絵』より。西本願寺蔵


 大谷大学編『真宗年表』(法蔵館、1973年)を基にして調べると、親鸞82歳から86歳までの5年間に自筆の書物全体の81%が書かれている(書状を除く)。そしてその間の83歳から85歳までの3年間に、なんと全体の62%が書かれているのである。これは、なぜか。それは善鸞の問題に心を痛めたからであるという見方が、善鸞義絶があった、なかった、という両方の意見の人たちでほぼ一致している。この時期はちょうど善鸞問題があった時期である。
 善鸞が関東へ行って念仏の問題を鎮められず、かえって騒ぎを大きくしたことは事実だったようである。親鸞は息子が期待した成果を上げてくれなかったことに対し、自分の指導が足りなかったのではないかと悩んだ。親しかるべき息子さえ説得できなかった自分の信仰とは何であったのかと悩み、若いころからの信仰を振り返った。その際、かつて書いた文章をもう一度書き、また思うところを新たに書いて信仰を確認した。その結果が多数の自筆本執筆となったのであろう、ということである。
 すると、現代にこのように多数の親鸞自筆本が遺ってするのは誰のおかげか。むろん親鸞のおかげであるけれども、善鸞がいなければそれらは存在しなかったのではないか。なんと現代の私たちにとって息子善鸞はありがたい存在と見直すべきではないか、ということなのである。
 また善鸞は、本願寺教団でいえば、親鸞に続く第二世如信をこの世に生み出してくれた人物である。善鸞がいなければ如信はいなかったのである。
 現代は子どもは宝、大切にしようとする意識が高まっている時代である。その観点からも善鸞問題を見直すべきである。親と子は、いつもにっこり笑顔でいるだけが望ましい関係ではない。親鸞と善鸞は多大な遺産を現代の日本、そして世界に遺してくれたのである。それは親子の葛藤の中から生まれたものであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です