神奈川と親鸞 前編16回

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神奈川と親鸞 第16回 筑波大学名誉教授 今井 雅晴   仲間の念仏者たち⑸ 聖覚➀―北条政子三回忌の導師―
聖覚の遺跡・西法寺。京都市

聖覚の遺跡・西法寺。京都市

 安貞元年(1226)7月11日、北条政子の三回忌供養のため丈六の阿弥陀堂供養が鎌倉で行われた。主催は北条時房であった。「丈六の阿弥陀堂」とは、宇治の平等院鳳凰堂等に安置されている大きさの阿弥陀の大仏(丈六の大きさ)が安置されるべき建物である。  供養の導師は臨済宗の退耕行勇であった。彼は源頼朝や政子の帰依を受けた、当時鎌倉でもっとも有力な僧であった。法要には北条泰時や時房たちが参列した。  二週間後の7月25日、もう一つの政子三回忌法要が行なわれた。主催は二階堂行盛であった。彼は政子の信任があつく、元仁元年(1224)に政所の執事(次官)となったが、翌年に政子が亡くなると出家した。義時没後の執権職争いでは泰時を支持し、評定衆の一員に選ばれて幕政の運営に当たっていた。そのころの事務官僚のトップであった。  行盛は政子供養のために別の寺院を建立し、その落慶法要を行なったのである。導師には聖覚僧都を京都から招いた。聖覚は天台宗の僧侶で、父の澄憲法印譲りの唱導の名手として有名であった。唱導とは説法のことで、聖覚は説法が大変上手だったのである。『吾妻鏡』同日条によれば、聖覚の説法を次のように記している。泰時・時房も参列した。   凡そ表白花を餝り、啓白玉を貫くの間、聴聞の尊卑随喜渇仰、言語の及ぶ所に非ず。  「政子殿への心を込めた供養の言葉は花を飾っているようであり、極楽往生の願いを込めた言葉は宝石を糸で連ねたようでした。それを聞いていた参列者は非常に喜び感動したことは文字で表わすことができません」。この法要は大成功であった。  なぜ幕府は聖覚僧都なる人物を重要な政子三回忌の導師に招いたのであろうか。それはおそらく、聖覚が関東の西の守りともいうべき箱根山に鎮座する箱根権現の支配者だったからであろう。箱根権現は頼朝以来、幕府安全の祈祷を凝らしてもらっていた重要な神社であった。箱根権現を味方につけておかなければ幕府は危ういのである。  興味深いことに、聖覚は法然の有力門弟で、親鸞とも非常に親しい友人であった。

神奈川と親鸞 前編16回」への1件のフィードバック

  1. いつもありがとうございます。
    受講させて頂きたいですが 所属寺の定例法話会で参加出来ません。
    資料をお願いしたいです。宜しくお願いいたします。

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