法然聖人とその門弟の教学 第9回

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法然聖人とその門弟の教学
第9回 「総願と別願」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 浄土教の重要な用語に「本願」があります。本願とは、以前からの願いという意味で、菩薩が因位の時(さとりを開くために願を建てて修行している間)におこした衆生救済の誓いをいいます。また、衆生救済のためのまさしく根本となる願という意味でもあります。

 法然聖人はこの本願を考えるとき、総願と別願の二種があることをいいます。総願とは、すべての仏が菩薩の時におこす誓いのことで、「四弘誓願」がこれに当たります。四弘誓願とは、「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」という四つの広大な誓いのことです。源信和尚の『往生要集』にも述べられていますが、若干の異同があります。

 武蔵野大学では、週に一度大学礼拝を勤めていますが、そのときに、この四弘誓願の訳を教職員と学生が唱和するようにしています。その訳とは、「いきとし生けるものが幸せになるために(度) わたくしの「ひとりよがり」のこころをきよめ(断) 正しい道理をどこまでもきわめ(学) 生きがいのある楽しい平和の世界をうち立てたい(成)」(山田龍城訳)というものです。

 一方、別願とは、それぞれの仏・菩薩の独自の誓願のことをいい、これによってそれぞれの仏の性格が異なってきます。法然聖人は別願の代表例として、釈迦の五百の大願や薬師の十二の上願とともに、阿弥陀仏の四十八願を挙げています。この四十八願については、

  おほよそ四十八願みな本願なりといへども、殊に念仏をもつて往生の規となす。
                           (『選択本願念仏集』)

と、四十八願はすべて本願というけれども、念仏往生を規範とすることを述べています。念仏往生が誓われた願は、四十八願の中の第十八番目の願(第十八願)であり、これを根本の願として、「本願中の王」と名づけています。それと同時に、法然聖人は第十八願には念仏以外の行(余行)が誓われていないことを強調しています。

 ところで法然聖人は、阿弥陀仏がいつ、どの仏のもとで、本願をおこされたのかという問いを設け、『無量寿経』によって、その答えを導き出しています。ここで指摘しておかなければならないことは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、決して一人で発願し、修行したわけではなかったということです。

 『無量寿経』では、釈尊が阿難に対して、永遠なる過去において、錠光如来が世に出現して、数限りない人びとを教え導き、そのすべてのものにさとりを得させて、世を去られたことから説き始めています。錠光如来とは、釈尊の前生において、釈尊に対し未来に成仏すると予言した仏です。つまり、錠光如来から説き始めることで、釈尊の説法の根源を意味づけた表現となっていると考えられます。

 つづいて、錠光如来をはじめ五十三仏に次いで出現したのが世自在王仏であることが説き明かされます。この世自在王仏の説法を聞いて、心に悦予を懐き、この上ないさとりを求める心をおこしたある国王が、国も王位も捨てて出家修行者の身となり、名のった名前が「法蔵」でありました。

 ここから法蔵菩薩が発願したのは、世自在王仏の説法を聞くことによってなされたものであることがわかります。法蔵菩薩にとって、世自在王仏の存在なくしてはその発願も修行も成立しません。説法者である世自在王仏と聞法者としての法蔵菩薩の関係性が注目された記述となっているのです。

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