法然聖人とその門弟の教学 第21回

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法然聖人とその門弟の教学
第21回 「廃立の義」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は『選択本願念仏集』に、『無量寿経』の三輩段には念仏以外の行(余行・諸行)が説かれているのに、なぜ「ただ念仏往生」を説くのかを問題としています。この問いの答えとして、まず一切衆生の素質や能力とは、それぞれ異なるものであるから、釈尊は上・中・下の三輩に分け、それぞれの素質や能力にしたがって、無量寿仏(阿弥陀仏)の名を専ら称えるよう勧められたと明かしています。
 しかし、これでは十分に答えたとは言えないとして、法然聖人はさらに「なぜ余行を棄てて、ただ念仏というのか」という問いを設けます。この設問の答えには、次の三つの解釈があることを提示しています。

 (1)諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。
 (2)念仏を助成せんがためにしかも諸行を説く。
 (3)念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を立てんがためにしかも諸行を説く。

 これら三義は、法然聖人の言葉からそれぞれ(1)廃立、(2)助正、(3)傍正と呼ばれています。
 法然聖人は、この三義のうちの初めの「廃立の義」を、善導大師の『観経疏』「散善義」の文に基づいて説明しています。廃立の「廃」とは念仏以外の諸行を、「立」とは念仏をそれぞれ配当させたもので、諸行を廃し、念仏を立てるために廃すべき行を明確にすることを目的として、諸行を説いたという解釈です。
 法然聖人は、善導大師が『観経疏』「散善義」で「『観無量寿経』には、はじめから定善・散善の行法の利益を説いているけれども、阿弥陀仏の本願の救いから考えると、釈尊の意とは、衆生に一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあります」と述べていることに注目し、これに基づいて「廃立の義」を解釈しています。
 つまり、法然聖人は、「三輩のうち上輩には菩提心などの余行が説かれているけれども、阿弥陀仏の本願の救いから考えると、釈尊の意とは、ただ衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあります。だから、阿弥陀仏の本願には余行は誓われていないのです」と明示しています。したがって、法然聖人は三輩すべての人が阿弥陀仏の本願をよりどころとするのですから、三輩いずれも「一向に専ら無量寿仏を念ず(一向専念無量寿仏)」と説かれていると理解しているのです。
 さらに、法然聖人は「一向専念無量寿仏」の「一向」の語に注目して、一つのたとえを提示しています。それはインドには「一向大乗寺」(ただ大乗仏教を学ぶ寺)と「一向小乗寺」(ただ小乗仏教を学ぶ寺)、それに「大小兼行寺」(大乗と小乗とを兼ねて学ぶ寺)の三種類の寺があるけれども、大乗と小乗を兼行する寺には「一向」の言葉がないというものです。このたとえを通して、「一向」とは「他に心をかけず、ひたすらに」という意味であることを示し、『無量寿経』に説かれている「一向専念」とは、念仏以外の諸行を廃してただ念仏を用いるから「一向」といわれていると解釈しています。もし「ただ念仏」でないならば、「一向」と言うことはないという論理です。このように「一向」が持つ言葉の意味から「廃立の義」を導き出しているのです。

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