法然聖人とその門弟の教学 第19回

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法然聖人とその門弟の教学
第19回 「『無量寿経』の一念」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人の主著『選択本願念仏集』(『選択集』)には、『無量寿経』に「一念」が三か所に説かれていることを指摘しています。その三か所とは、(1)第十八願成就文、(2)三輩段の下輩の文、(3)流通分の弥勒付属の文です。いずれの「一念」も一声の称名念仏と理解されています。
 (1)第十八願成就文は、阿弥陀仏の第十八願が成就したことを表す文のことをいい、『選択集』の第三「本願章」と呼ばれる章に引用されています。

  もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、
  心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す。

 この第十八願成就文は、「すべての衆生は、阿弥陀仏の名号を聞いて信じ喜び、わずか一声でも念仏し、心からその功徳をもって阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うならば、みな往生することができ、不退転の位に至るのです」という意味です。法然聖人は、この文が『無量寿経』にあることを根拠として、第十八願(本願)が成就されていることを示されました。この文に「乃至一念」とあります。
 (2)三輩とは、『無量寿経』に説かれている浄土往生を願う修行者を、三種類に区分したことをいいます。三種類とは、上輩・中輩・下輩に分けられます。
上輩とは、出家して修行者となり、さとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏(無量寿仏)を念じ、さまざまな功徳を修める者をいいます。中輩とは、出家することはありませんが、さとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏を念じ、多少の善を修める者をいいます。
 そして下輩とは、功徳を積むことができない者のことで、それでもさとりを求めるこころを起こして、ひたすらに阿弥陀仏を念じる者をいいます。この下輩の文に「乃至一念かの仏を念じ」とあります。
 法然聖人は三輩段全体を、『選択集』第四の「三輩章」と呼ばれる章に引用して、三輩すべての人が念仏によって往生することを説かれています。
 (3)流通分とは、経典の最後に説き明かされ、釈尊が説法を終えるにあたって、この経の教えを流布するよう勧められている部分をいいます。『無量寿経』では、釈尊が弥勒菩薩に教えを後世に伝えるよう託しています。この与え託すことを付属といいます。

  仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍し、
  乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足す」と。

 この文は、「釈尊が弥勒菩薩に、『阿弥陀仏の名号を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一声でも念仏すれば、この人は大きな利益を得る者です。この上ない功徳を身にそなえるのです』と仰せになりました」という意味です。
 法然聖人はこの文を、『選択集』第五「利益章」と呼ばれる章に引用されています。一声一声の称名念仏には、往生浄土という大きな利益を得ることができ、この上ない功徳がそなわることを明らかにされています。

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