法然聖人とその門弟の教学 第15回

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法然聖人とその門弟の教学
第15回 「念声是一」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は、何をもって阿弥陀仏が念仏以外の行(余行)を本願とされずに、ただ念仏を衆生の往生のための本願であるとされたと説いたのでしょうか。それは『無量寿経』巻上に説示されている第十八願の文に根拠があります。第十八願文とは、漢文で書きますと、以下の三十六文字によって成り立っています。

  設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法

これを書き下しますと、次の通りです。

  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せん。
  もし生ぜずといはば、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
 
 この願文の意味は、「わたしが仏になるとき、生きとし生けるものすべてが心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようならば、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆罪を犯したものや仏の教えを謗るものは除かれます」です。
 
 この第十八願文の中、法然聖人の『選択本願念仏集』では、「唯除五逆誹謗正法」を省略して引用しています。なぜ省略しているのか、その理由については、専修念仏の教えを誤解し、批判する者がいることを想定していたからではないかと考えられますが、思想的な背景としては、第十八願文をどのように解釈するのか、といった問題があります。
 
 法然聖人は経典を解釈する際に、「偏依善導一師(偏に善導一師に依る)」と主張するほど、他のだれよりも善導大師がどのように解釈しているのかに注目しています。第十八願についても同様で、善導大師における第十八願の理解が示された文(『観念法門』と『往生礼讃』)を引用して、その解釈を施しています。法然聖人が特に重視したのは、第十八願に誓われた「乃至十念」を、善導大師が「下至十声」といわれたことです。
 
 法然聖人は「乃至十念」を、「乃至」と「十念」とに分け、まず第十八願に「十念」といい、善導大師がこれを「十声」と解釈したことについて問題としています。この「念」と「声」とは同じであるのか、違うのか、という問いを設け、この問いに対して、法然聖人は「念」と「声」とは同一である(念声是一)と位置づけました。つまり、善導大師が「念」を「声」と解釈されたのは、第十八願に誓われた念仏を、声に出して称える念仏、すなわち称名念仏であると明確に示したということなのです。
 
 また、念と声が同一であることを、『観無量寿経』の下品下生の文と『大集経』の「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」という文、さらにこの文を解釈した懐感禅師の『群疑論』を引用して、第十八願に誓われた「十念」が十回の称名念仏であることを強調しています。

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