法然聖人とその門弟の教学 第14回

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法然聖人とその門弟の教学
第14回 「平等の慈悲」
武蔵野大学通信教育部准教授 前田 壽雄

 法然聖人は「だれもが」実践できる易しい行こそ勝れていると説いています。それは決してごく限られた人ではなく、だれもが共通して実践できるという点に重きを置いています。つまり、念仏は易行であるからこそ、すべての人に開かれた行であり、諸行は難行であるから、すべての人に通じるとは言えません。このような理由から、阿弥陀仏は生きとし生けるものすべてを平等に往生させるために、難行を捨てて、易行を選び取って、本願とされたのです。
 
 そこで法然聖人は、本願の念仏がすべての人に開かれているという意味を具体的に述べています。例えば仏像を造り、塔寺を建てることを本願に誓われているとするならば、経済的に貧しく生活が困窮している者は往生できないということになります。ところが、富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 次に智慧才能のあることを本願に誓われているとするならば、愚かで智慧の劣った者は往生できないということになります。ところが、智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 さらに、仏の教えを多く見聞して学問があることを本願に誓われているとするならば、仏の教えをあまり見聞したことのない者は往生できないということになります。ところが、多く学んだ者は少なく、見聞が少ない者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 そして、戒律を堅くたもつことを本願に誓われているとするならば、破戒や無戒の者は往生できないということになります。ところが、戒をたもつ者は少なく、戒を破る者は甚だ多いのが現実であり、このような人びとこそ阿弥陀仏の本願の救いの対象とされているのです。
 
 このように阿弥陀仏の本願には、だれにでも実践できる易行が誓われているのですが、その根源には「平等の慈悲」に基づくことが示されています。

  しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、
  造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。
  (『選択本願念仏集』)

 この文は、「阿弥陀如来は、法蔵菩薩であった昔に、平等の慈悲の心を起こされて、生きとし生けるものすべてを救うために、仏像を造り、塔寺を建てることなどの諸行を往生の本願とはされずに、ただ称名念仏の一行を本願とされた」という意味です。つまり、阿弥陀仏の本願に念仏一行のみが誓われているのは、すべてに向けられた誓いであるからであり、平等の慈悲によって起こされた願いであるからです。
 
 さらに法然聖人は、法照禅師の『五会法事讃』を引用して、「阿弥陀仏の本願とは破戒の者であろうとも罪深い者であろうともすべてを救いの対象としているのであり、回心して多く念仏すれば、瓦や小石は黄金に変わってしまう」と説いています。

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